手段としての大人の意義
石原荘一郎「大人養成講座」(扶桑社)に以下の記述があります。
この本の目指すところは「手段としての大人」の養成に他なりません。本来、大人になるということは自分の感情を無理に抑えることでもなければ、世の中に媚びを売り続けることでもないはずです。しかし、大人のテクニックを身に付けること自体が目的になってしまうと「自分」の存在はどんど縮んで行く一方で、しまいには袋小路に入り込み、大人であることが苦痛以外の何物でも無くなってしまうでしょう。そんなことなら大人になんかならないほうがよっぽどマシです。ところが、大人のテクニックを手段として使いこなすことが出来れば、日常で起こる種々雑多なトラブルに振り回されない「余裕の心」や自分の愚かさも他人の愚かさも笑って飲み込んでしまえる「優しい心」や生きるということが宿命的に持つ恥ずかしさを自覚できる「おおらかな心」や他人の痛みや思いやりを敏感に感じ取ることが出来る「豊かな心」や自分の意思をきっちりと伝える「強い心」といったものが身について、大げさに言えば「自由と平和」に満ちた心境を保ち続けることが出来るはずなのです。(243頁)
私は学生時代「目的としての大人」に対し嫌悪感を持っていました。大人になんかならないほうがよっぽどマシだと真剣に思っていました。しかし今の私は(大人としてのテクニックなど持ちあわせていませんが)「手段としての大人」を目指しています。何故なら弁護士業務は「大人」でないと出来ないからです。それは自分の感情を無理に抑えることではないし世の中に媚びを売ることでもありません。無理難題を受け流せる軽さ・自分や相手の失敗を飲み込める余裕・欲望を肯定できる懐の深さ・痛みを共感できる優しさ・それでいて自分の意思を明確に表現できる強さ。これらを併せ持つ「手段としての大人」に私は憧れています。