慶ばしい弁護士・弁慶
能「安宅」(歌舞伎「勧進帳」)は源頼朝から追われる源義経が勧進帳を読み上げる弁慶の機転により安宅の関を抜ける物語です。内田樹氏先生はブログでこう述べています。
富樫の立てた新関の前で困惑した弁慶は「ただ打ち破って御通りあれかしと存じ候」といきりたつ同行の山伏たちを抑えて「なにごとも無為(ぶい)の儀が然るべからうずると存じ候」と呟く。そして、弁慶の「不思議の働き」によって、安宅の関では「起こるはずのこと」(富樫一党と義経一行の戦闘)は起らなかったのだが、それは「白紙の巻物」を「勧進帳と名づけつつ」朗朗と読み上げる弁慶の「ないはずのものが、ある」というアクロバシーと構造的には対をなしている。『安宅』が弁慶の例外的武勲として千年にわたって語り伝えられているのは「ないはずのものをあらしめることによって、あるはずのことをなからしめた」という精密な構造のうちに古人が軍功というものの至高のかたちを見たからである。『安宅』は「存在しないものをあたかも存在するかのように擬制することによって存在したかもしれない災厄の出来を抑止する」というメカニズムを私たちに示してくれる。
凡庸な弁護士は「ないはずのものをあらしめることによってあるはずのことをなからしめる」というアクロバットを演じることなど出来ません。かかる精密な物語を構築し得るのは社会的知性の高い者にしかできない技です。弁護士は証拠を偽造して「存在しないものを存在するかのように振る舞う」ことは出来ませんが、特有の存在価値で「存在したかもしれない災厄の出現を抑止する」ことは出来るはずです。「慶ばしい弁護士」を志す者は「弁慶」を目指さなければなりません。