寂しさと読解力
ある学校の国語先生が次のように書かれています。
私が学生時代から国語の試験で強かったのは偏に寂しい人間だったからです。だてに3~5才を鍵っ子で生きてきた訳じゃありません。離婚した25才母と3才子の2人。子は夕方から夜をTV無しの部屋で独り貸本屋で借りた水木しげる翁の妖怪図鑑を貪るように読み、日本語と人間は見えない他者とも通じ合えることとを学びました。ユーミンを文字って言うと寂しさに包まれたなら目に映らないものすらもメッセージになるのです。長じて中学受験塾。初模試の国語で11才は本文の筆者ではなく設問を書いた作問者が何を聞きたいのかを考えました。偏差値は95。講師に呼び出され理由を聞かれた私は「問題を作った先生の考えを考えたから」。国語が解けるのは寂しさの原体験を大切に抱えて生きているから。子どもは真似しなくていいです。ですから私がアラフォーまで独身を貫き通しているのも、「寂しさ」を忘れず国語力を落とさないための職業上の必要性であることを是非お忘れなく。
高校生時代、私は国語(特に現代文)が嫌いでした。「作者は何を言いたいのでしょう?」という問いに「そんなもの作者以外の人間に判るか」と感想を抱く子供でした。当時の自分が「寂しさ」の意味を判っていなかったからだろうと思います。受験で問われているのは単に「作問者が何を聞きたいのか」だけであって「筆者の真意」ではない。今はその差異が判りますけれども、17・18才の自分には判っていませんでした。この仕事をやるようになり、私は毎日「現代文」と格闘しています。問われているのは「法的な意味」だけであって「作者の真意」ではない。私は相手方準備書面の意味が判ります。その理由は(国語先生に重ね合わせて言えば)私が弁護士として20年以上も「法律家としての寂しさの原体験」を抱えながら生きているからであることを是非お忘れなく。