失われて判る日常性の有り難さ
それは突然の事態であった。午前5時ころに腹部の激痛を感じた私は思わず声を上げた。生まれて初めて経験する類の痛みだった。吐き気が襲ってきたので、トイレに駆け込み嘔吐しようとしたが何も出ない。まだ午前5時。救急車を呼ぶのは近所の迷惑になるので耐えられなかった。妻はネットで朝早くから開いている病院の情報を調べ、午前7時、病院に連れて行ってくれた。医師からこれまでの経過や症状の具体的中身を詳細に聞かれた。基礎的な検査も行われた。告げられた医師の言葉に私は驚いた。「精密検査をしないと断言出来ませんが尿管結石ではないかと思います。」全く想定していない病名であった。点滴により鎮痛剤が入れられ私は安堵した。私は痛みに弱い人間である。酷い疼痛が続くくらいならば、死んだ方がマシだと真剣に思っている。そんな私にとって鎮痛剤は「魔法の薬」なのであった。紹介状を書いてもらった聖マリア病院で精密検査が行われた。痛みの原因はたしかに尿管結石なのだった。結石を溶かす薬が処方され毎日飲み続けることを命じられた。レーザーによる即時の治療を期待していたのだが内科的治療が第1選択なのであろう。ところが翌々日にまたしても酷い痛みが襲い、再び鎮痛剤の点滴を受けた。まだるっこしい治療方針に対していらだちを覚えた。が、酷い痛みが生じたのはこれが最後だった。薬を飲み続けていたところ尿の出が良くなった瞬間があった。薬剤で溶かされた結石が尿道を経由し排出されたのだ。突然出現した私の「痛みとの格闘」は終了した。痛みがない日常性の有り難さはそれが失われたときに初めて実感される。この真理は身体をもって経験しないと実感できないもの。それは社会的な出来事にも妥当する。「紛争がない日常性の有り難さ」は失われたときに初めて認識されるものなのでしょうね。