外科医と呪術者
近代医学においては医学と呪術が未分化であった頃の呪術師が行う民間療法は否定の対象でしかありません。近代医学は「病人を看る」のではなく「病気を観る」ことによって成立しました。しかし近代医学の行き着いた末に「死の意味の喪失」がもたらされています。近代医学は「3人称の死」(他人の死)しか論じてこなかったからです。終末医療や脳死問題が提起しているのは自分がいかにして死を迎えるか(1人称の死)夫婦や親子の死をどう受け入れるか(2人称の死)の問題性なのです(柳田邦男「犠牲・サクリファイス」文藝春秋)。ドイツの評論家ベンヤミンはこう述べています(多木浩二「複製技術時代の芸術作品・精読」岩波現代文庫)。
外科医は呪術師の対極に位置している。病人の上に手を置くことで治療する呪術師の態度は、病人の体内に手を入れていく外科医の態度と違う。呪術師は自身と患者との間の自然な距離をそのまま維持する。これに対し外科医は人間対人間という関係を断念して(手術者になり切って)病人の内部に侵入することを辞さない。
この評論においてベンヤミンは芸術作品が有するアウラ(コピーではない原本だけが持つ存在価値)が複製という技術により喪失していくことの意味を深く論じています。上記引用文は対象との自然な距離を維持していた呪術師的感覚が近代的合理性のもとで自然な距離感覚を失い外科医的感覚に変容していく様を描写しているものです。司法修習生が司法研修所で学ぶ要件事実は「外科医」のための教育。依頼者の語る言葉を法律枠組みの中でのみ意味を見いだす思考訓練です。昔の弁護士には依頼者に自由にものを喋らせない方もいました。「余計なことを話すな・おれが聞いたことだけに答えろ」というのです。そんな弁護士の依頼者が抱えるストレスは相当なものでした。弁護士は呪術師的要素を捨て去るべきではありません。「1人称の死」「2人称の死」が論じられる際は病の進行をどうすることも出来ず患者の体に手を当てて祈りを捧げた呪術師の姿が想起されるべきです。