壁と卵のメタファー
村上春樹氏はエルサレム賞受賞式で以下の有名なスピーチを行いました。
ひとつだけメッセージを言わせてください。個人的なメッセージです。これは私が小説を書くときに常に頭の中に留めていることです。紙に書いて壁に貼ってあるわけではありません。しかし頭の壁にそれは刻み込まれています。こういうことです。<もし、ここに硬い大きい壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。>そう、どれほど壁が正しく卵が間違っていたとしても、それでもなお私は卵の側に立ちます。正しい正しくないは他の誰かが決定することです。あるいは時間や歴史が決定することです。もし小説家がいかなる理由があれ壁の側に立って作品を書いたとしたら、いったいその作家にどれほどの値打ちがあるでしょう?(村上春樹「雑文集」新潮社)
弁護士は硬い大きな壁を感じています。壁は個人の幸福を守るために構築されたと自称していますが、実際には個人を圧迫し・自らに従わせようとします。人間が産み出したものが逆に人間を不幸に追い込む。弁護士はかような疎外的状況を実感しながら活動しているのです。壁を主宰する者は常に自らの正しさを主張します。壁には壁の言い分があるでしょう。けれども、どれほど壁が正しく、卵が間違っていたとしても、弁護士は卵の側に立ちます。弁護士にとって正しい正しくないは依頼者が決定することです。弁護士が、いかなる理由があれ、壁の側に立って活動を行うとすれば、その弁護士に値打ちはありません。私も村上氏にならい宣言したいと思っています。もし、ここに硬い大きい壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。ただ、ぶつかって割れ続ける卵は辛いものです。割れ続けると本当に凹みます。