呪いの言葉と法的論理
田口ランディ「根を持つこと・翼を持つこと」(晶文社)の記述。
呪いの特徴はまず「意味不明の反復」に始まる。呪いの言葉というのは明瞭ではおかしい。相手を縛るためにはまず不明瞭であることが重要なのだ。よって人は呪いをかけるために不明瞭な反復を行う。理解不能だ。なぜなら呪いは理解を嫌うからだ。理解されては呪いにならない。相手に問い詰められて何も言えなくなる。この瞬間すでに呪いが始まっている。
ある女が無表情に「あせらないで」と言い残して去っていった。ランディさんは不愉快になり「何を言いたいんだ・あのくそ女は」と憎しみに近い感情を抱く。その女を見つけ出し自分が如何にイヤな思いをしたかを伝えた。女はまた言った。「あせらないで」。ランディさんが抱いた殺気は呪術研究家である友人の「正気にもどんなさい」という言葉でやっと解消された
法律相談の場には呪いにかかっていると感じられる相談者がいます。誰かに強烈かつ不合理な影響力を行使されて金縛りにあっている感じを受ける被害者的立場の相談者がいます。他方、相談者自身が呪いを行使している加害者的立場の相談者(「モンスター」と呼ばれている方)もいます。私に呪術の能力はありません。私が使えるのは法律の言葉にすぎません。しかし論理で構成されている法律の言葉は呪術の解毒剤として機能することがある気がします。特に合理主義と個人主義の精神で貫かれている民法の論理は時として鮮やかに呪術を切り裂くように感じます。論理は時として呪術に対抗しうる力を持つからです。「論理自体が呪術的色彩を帯びている」とも言えます。その意味において弁護士は「現代の呪術者」では?と私は感じたりするのですが、大袈裟でしょうか。