南無地獄大菩薩・地獄の中の極楽
名僧・白隠(1685-1768)は500年不出の大禅匠(紀野一義「名僧列伝(二)」講談社学術文庫236頁)。臨済宗の寺で座禅する際は白隠禅師の「座禅和讃」を唱えます。
衆生本来仏なり・水と氷の如くにて・水を離れて氷なく衆生の他に仏なし・衆生近くを知らずして遠く求むるはかなさよ(略)此の時何をか求むべき・寂滅現前する故に・当処すなわち蓮華国・此の身すなわち仏なり(桜井英雄他「お経・禅宗」講談社)。
白隠は地獄の火に対する恐怖に導かれて仏教の世界に入りました。白隠は座禅を極めようとする余り禅病になりました。その経験をふまえ「夜船閑話」(疾患を自分で克服するためのガイド本)にまとめています。白隠は「南無地獄大菩薩」という言葉を書き残しました。地獄に対する恐怖を乗り越え禅を極めた自らの生涯からにじみ出た言葉です。この言葉には「人は地獄の中でこそ極楽を見極めることが出来る」と表現しうる真理が含まれています。
以下に挙げるのは某刑事事件の弁護をするなかで被疑者から伺った言葉です。
弁護士さん。私も長いこと生きてきましたけど、これほど人を見る目がなかったことを思い知らされたことはありません。親友だと思っていた人が手のひらを返したみたいに知らん振り。逆に見直したのが女房なんです。特に仲も良くなかったんで今回の逮捕で当然に離婚を要求されるんだろうなって覚悟したんですよ。なのに毎日接見に来てくれて、差し入れをしてくれて。俺はなんて良い女房に恵まれていたんだろうって判りました。
留置場はある意味で地獄です。が、その中でしか見えない極楽の風景もあるようです。この方が逮捕前と違う心象風景でその後の人生を生きているのは間違いありません。この逮捕を契機に事後の人生を実り多きものに出来たのであれば彼も「南無地獄大菩薩」と書き残すべきでしょう。