全員が同程度に不満足な合意
実践的な決断をする際には価値の選択を伴います。ある価値の選択には必ず反対価値からの批判が生じます。「社会の全ての者から批判を受けない」実践的な決断はあり得ません。
内田樹教授は外交に関するマスコミの記述(注・毎日新聞4月5日付)をこう批判します。
コラムが首相に求めている「沖縄県民、米国、連立与党のいずれをも満足させる道」などというものは存在しない。存在するのは「沖縄県民、米国政府、日本政府(さらには中国、韓国、台湾など周辺諸国)のいずれにとっても同程度に不満足な道」だけである。外交上のネゴシエーションというのは「全員が満足する合意」ではなく、「全員が同程度に不満足な合意」をめざして行われる。「当事者の中で自分だけが際立って不利益を蒙ったわけではない」という認識だけが、それ以上の自己利益の主張を自制させるからである。それが普通の外交上の「落としどころ」である。外交というのは当事者の「いずれをも満足させる道」だとこの論説委員が本気で信じているとしたら、それはずいぶん夢想的な考え方であると言わねばならない。だが私はこの論説委員はそんなことを信じていないと思う。それほどイノセントで夢想的な人間が、タイトな人間関係やどろどろした派閥力学を乗り越えて、ある程度の社内的地位に達せるはずがないからである。彼自身は「当事者全員が満足するようなソリューション」などというものが存在することを信じていない。それを生身の経験では熟知しているはずである。にもかかわらず、コラムには「自分が信じていないこと」を平然と書ける。私はこれを「病的」と申し上げているのである。
訴訟における「和解」は全当事者が満足する合意ではあり得ません(そんな方策があれば最初から訴訟にはなっていません)。和解も外交と同じく「全員が満足する合意」ではなく「全員が同程度に不満足な合意」をめざして行われるのです。「自分だけが際立って不利益を蒙ったわけではない」という認識が、それ以上の自己利益の主張を自制させるのです。