個の不在・無責任の体系
森達也氏は「ポリタス」でこう述べています。
ドイツでは憲法(正確には基本法)を改正するとき国民投票という手続きを取らない。数年前にこのことを知ったとき、ナチス・ドイツの記憶を持つドイツこそ国民投票を最優先すべきなのではと不思議だった。知り合いのドイツ人はその理由について僕に「我々は自分たちに絶望したからです」と説明した。集団化したときの自分たちの判断を信用していないのだとも。戦後ドイツを全面的に称揚するつもりはない。ただし自分たちの過ちについて日本とドイツの意識のあいだには相当な差異がある。戦争における日本のメモリアルデーは戦争が終わった8月15日と広島・長崎の8月6・9日。ドイツのメモリアルデーはアウシュビッツが解放された1月27日とヒトラーが首相に任命されて組閣した1月30日だ。つまり加害の記憶とナチス体制が始まった日――これがドイツにおける戦後70年の歴史の原点だ。だから彼らは毎年思いだす。なぜ自分たちはナチスを支持したのか。なぜ自分たちはあれほどに残虐な行為に加担したのか。深い絶望とともに考え続ける。だからこそ現実的な選択ができる。日本人は絶望的なまでに絶望しない。直後には大騒ぎするけれど、すぐに目を逸らす。責任を曖昧に分散しながら希釈する。個ではなく集団に紛れてしまう。そして同じ過ちを繰り返す。
上記文中「戦争が終わった8月15日」なる表現には賛同しません(降伏文書の調印は昭和20年9月2日でありサンフランシスコ講和条約発効は昭和27年4月28日。8月15日は降伏する意思表示した日)。が「日本人は絶望的なまでに絶望しない」という逆説的表現には深く賛同します。日本人が絶望しない理由が何なのか?突き詰めていくと「個の不存在」に行き着くように感じます。倫理的責任・政治的責任の所在を(居心地の良い親和的集団の中に曖昧に分散しながら)個人の責任を希釈する無責任の体系が、当時も・現在も続いているのです。