5者のコラム 「易者」Vol.41

作者の人格・作品の凄み

私は大学生の時にドストエフスキーにかぶれました。彼は実人生で借金を抱えつつ賭博に走り・てんかんを持ち・死刑判決を受け・愛人を持つという一面を持っていました。が、かような実人生が氏の諸作品に対する私の敬愛を減殺することはありませんでした。
 中村文則「ドストエフスキーの負のエネルギー」はこう述べています(現代思想vol38-4)。

ある女性がドストエフスキーを読み「何か凄いのは判るけど人間的に駄目でしょ。彼氏だったら最悪」と言っていたのを思い出す。(略)地獄行きの基準は作品の良さより実生活だろうか。閻魔大王の前に立たされたドストエフスキーをぼんやり想像する。閻魔大王が彼の人生記録を見て「あ無理」と言ったとしたら。その時ドストエフスキーはなんて言うだろうか。「いや愛人と旅行には行きましたが、でもあれはプラトニックというやつでして。へへへ!まあ精神的に純粋ではないですがね」と言うかもしれない。アウトっぽい。しかし舌にカギを刺される瞬間キリストの使いが助けに来てくれるかもしれない。そのキリストの使いはドストエフスキーはこっちが引き取ると言ってくれるかもしれない。だって彼の土着のキリスト教信仰は見事だから。多分そうなったらドストエフスキーは歓喜し400字詰め原稿用紙500枚分くらいの言葉で神への賛美をクドクド泣きながら続けるかもしれない。そうして天界へと導かれる。でも彼はその途中で不意に舌を出したくなるんじゃないだろうか。「ああ、この完全なる調和を壊したら?もし今ここで私が『天界にも賭博がありますかね?へへ』と言ったとしたら?」彼はこんなことを考えるかもしれない。いや、もう素直に天界へ行って欲しい。

私は「作者の実人生」から「作品の意味」を読みとる形式の評論は嫌いです。「作品」自体が素晴らしければ「作者」の人格など、どうでも良いのではないでしょうか? 

学者

前の記事

抑止刑論の理論的帰結