世俗問題の想像力
ブッダは子にラーフラ(悪魔)という名前を付けて出家しました。この「四門出遊」は仏典で美談視されています。山折哲雄「ブッダはなぜ子を捨てたか」(集英社新書)の記述。
しかしここで視点を変えてみるとどうなるか。その場面を仮に妻ヤソーダラーと息子ラーフラの側からみたとしたらどうなるか。自分の都合で突然家庭を捨ててゆく男の姿がそこには映っていなかっただろうか。一方的に家族を捨てることを宣言する、エゴイスティックな人間の姿だ。夫であることをやめ、父であることを拒否する非情な男。とすればそのような行為をいったいどうして「出家」などという言葉で呼ばなければならないのか。それは単なる「家出」ではないのか。シッダールタはそのときまだ何も悟ってはいなかったのである。ブッダガヤでの奇蹟はまだ生じていなかったはずだ。しかしこれまでのブッダの伝記の多くはこのよく知られた「四門出遊」の事件に対して妻や息子の視点から考察することをほとんどしていないのである。自己中心的な願望に憑かれた男を客観的に眺めるスタンスをとってはいない。(略) 覚者ブッダを仰ぎ見る視点が、おそらくこのときの妻ヤソーダラーからの視点・息子ラーフラからの視点を曇らせてしまったのである。同時に突然家出を決意した男のエゴイズムを追求する手を緩めてしまったのではないか。
弁護士は依頼者の話を大切なものとして聞いています。しかしながら「依頼者を仰ぎ見る視点」が強すぎると「相手方からの視点」を曇らせてしまいます。依頼者の中にも「自己中心的な願望」が見受けられます。弁護士が議論しているのは宗教的問題ではなく世俗的問題です。「双方の立場に対する想像力」を忘れてはならないと感じます。