メタファーという技術
昔、先輩弁護士の講話を拝聴する機会がありました。その先輩は自分の弁護士生活を回顧し最後に「弁護士は学者であり役者でなければならない」という言葉で講話を締めくくられました。聴衆は若い弁護士ばかりだったので「感銘を受けた」と感想を述べる方もいましたが私は逆でした。「何故そういう言葉が結論的なものとして語られるのか?」が不明でした。<メタファー>という言語技術は論理的には全く無意味なものです。それは言葉の持つ多義性を媒介項にして聞き手の心情に訴えるレトリックに過ぎないからです。それは答えではあり得ない・それは問いに過ぎないと私は感じていました。なので「いかなる意味において学者なのか・役者なのか」という部分が語られなければダメじゃないかと思いました。講演の締め方に対する私の違和感はその点に発していました。哲学徒であった(哲学と出逢った)ワタシが死後に残せるものは「問い」です。私が敬愛した哲学者は著作の中で自分の人生をかけた「問い」を発し自分の「答え」を書き連ねていました。それらの「答え」は時代の変化により陳腐になったものが多いのですが彼らが後世に残した「問い」は今でも大いに学ぶべきものです。哲学者はその問いの深さだけで歴史に名を残すことが出来るのです。このコラムは「弁護士は5者である」という言葉を「問い」として自分の思考を書き連ねていますが「答え」にはさほど意味はないと思っています。重要なのは問いを受けて各人が「答え」を見出していくことです。私は16年以上かけて答えを書き続けるに値する「問い」を見出し、多くの人の目に触れる場所を得ることができて有り難いことだと感じています。この私のコラム(答え)は遠くない内に意味が無くなると思っていますが「問い」は私の死後も多少意味があるんじゃないでしょうか。