サービス業と聖職者
現在、弁護士をサービス業と言い切る人は少なくありませんが、少し前までかような言明は毛嫌いされていました。では昔の弁護士はどのような存在として自己を認識していたのでしょうか?
河野真樹氏はブログでこう述べています。
サービス業でなければ何だったんだ、といわれれば、ごく真っ当な弁護士の方の感覚でいえば「聖職者」意識ということになるかもしれません。弁護士法1条に掲げられた「基本的人権の擁護と社会正義の実現」という使命をはじめ同法はまさしく弁護士に「聖職者」たるよう求めているように読めます。(中略)「聖職者」と称する人のなかにもおよそ実態とかけ離れた方は沢山いますが、弁護士を本当に「聖職者」と位置づけるかどうかは社会が判断するので、少なくとも勘違いととられてしまうのは、その実態が「聖職者」ではない・やっていることは普通のお金儲けをするサービス業だと捉えているということなのかもしれません。その意味ではこうした聖職者規定のもとで、弁護士がそれにふさわしいような仕事をしてこなかった、そうは社会に認知されてこなかった、とも言えなくはありません。最近の弁護士の中からは、そうしたことの反省に立って、むしろ「聖職者」ではなく1サービス業として社会のニーズをとらえ自己研鑚していこうとする決意の声を聞くことが多くなりました。
弁護士を過剰に聖職者扱いする論調に私は違和感を感じます(5者18)。しかしながら弁護士の聖職者たる性格を全否定する市場原理主義の露骨な欲望吐露も私は好きではありません。聖職者意識が競争意識に取って代わられるときに市民の利益が本当に守られるのか疑わしく思っています。河野氏は弁護士業務の特徴として「一回性・重要性・危険性」を的確に指摘しています。市場原理主義は弁護士業務の「大切な何か」を破壊します。弁護士の芸者化が進んでいる今だからこそ逆に弁護士の「聖職者」たる性格が強調されるべきではないのかと私は感じています。