オーラル中心の支配
内田樹先生のブログに見事な記述を発見。
植民地ではオーラル中心の語学教育を行い読み書きには副次的な重要性しか与えない。これは伝統的な帝国主義の言語戦略である。理由は明らかで、うっかり子どもたちに宗主国の言語の文法規則や古典の鑑賞や修辞法を教えてしまうと、知的資質にめぐまれた子どもたちは、いずれ植民地支配者たちがむずかしくて理解できない書物を読むようになり、彼らが読んだこともない古典の教養を披歴するようになるからである。植民地人を便利に使役するためには宗主国の言語が理解できなくては困る。けれども宗主国民を知的に凌駕する人間が出てきてはもっと困る。「文法を教えない。古典を読ませない」というのが、その要請が導く実践的結論である。教えるのは「会話」だけ、トピックは「現代の世俗のできごと」だけ。それが「植民地からの収奪を最大化するための言語教育戦略」の基本である。(中略)「現代の世俗のできごと」にトピックを限定している限り植民地人がどれほどトリヴィアルな知識を披歴しようと、宗主国の人間は知的威圧感を感じることがない。しかし、どれほどたどたどしくても、自分たちが(名前を知っているだけで)読んだこともない自国の古典を原語で読み、それについてコメントできる外国人の出現にはつよい不快感を覚える。
司法改革論者が国民に触れさせるのはオーラル中心の法律。トピックとなるのは現代の世俗のできごとだけ。それが法化社会と称されているものの内実です。刑事事件にトピックを限定している限り国民がどれほどトリヴィアルな知識を披歴しようと支配層の人間が威圧されることはありません。司法改革論者が本気で「法化社会」を進展させたいのならば行政事件の訴訟要件を緩和し、法的言語の文法を学ぶよう国民に呼びかけるべきです。が、かような動きを私は聞いたことがありません。