「慈」のこころ「悲」のこころ
五木寛之さんの講演(久留米市仏教会主催)を拝聴。五木さんは昭和7年生。80歳なのに1時間半立ったまま原稿なしで講演が出来る。凄い。皮肉っぽくこう言われた。「健康法として早寝早起きを推奨する人が多い。僕は学生時代から午前5時まで仕事して午後1時に起きる生活を続けている。健康に悪いと思ったことは無い。」生活リズムなんて人それぞれだ。五木さんの講演は笑いから入る。今回はこういう枕。「舞台裏で司会者が私の紹介をされているのを聞いていましたが棺おけの中で故人への弔辞を聞いているような気分でした。そういえば昔、司会者の方が緊張し私の紹介として『五木さんは若くして文壇に入られ』と言うべきところ『若くして仏壇に入られ』と言われたんです。そりゃ私は八女の人間だから若いときは仏壇に囲まれて育ったんですが、中に入ることはしなかったなあ。」会場は大爆笑。本題へ。金子みすずさんに「大漁」という詩がある。人間界の港では魚が多く取れて祝っているけれど、海の底では魚たちの家族が弔いをしているのではないか。他の命を犠牲にして生きていかなければならない人間の「業」を考えさせられる。ただし、こういう感性で生きてゆくのは正直つらいものがある。金子みすずは26歳で自殺したという。慈悲という言葉がある。「慈」(マイトリー)とは絆を作り上げてゆく感覚。傷ついた人に「がんばれ」と励ますイメージ。現在に安住することなく上昇を目指す感じ。これに対し「悲」(カルマ)とは何も出来ない自分の無力を自覚しつつ<黙って>傍にいるイメージ。がんばらなくて良い今のままで良い、と肯定する感じ。日本社会はこれまで慈を偏重してきたのではないか。悲の気分の時には体の奥からため息をつくことが多い。息をためることに意味がある。体がため息をつくことを欲したのは、早くなっていた呼吸をいったん貯めて、ゆっくりと息をすることを体が望んだからなのだ。