5者のコラム 「医者」Vol.151

「判る」と「判らない」

土居健郎「新訂・方法としての面接」(医学書院)に以下の記述があります(27頁以下)。

我々が初めて経験する事柄について、したがって馴染みがないはずのものについて「わかる」とか「わからない」というのは何故であろうか?初めて経験したものでも「わかる」という場合は、それが前もって馴染んでいたものと同類であると認識できるからであり「わからない」という場合はそれが前もって馴染んでいたものと異質であると認識するからである。(略)簡単にわかってしまってはいけないのである。言い換えれば、何がわかり・何がわからないかの区別が判らねばならない。(略)本当にわかるためには、まず「何がわからないか」が見えてこなければならないと言って良いであろう。

弁護士も経験を積み何度かやったことがある事案は自信をもって「判る」と言えるものです。他方、やったことが無い・初めて経験する事案あるいは馴染みがない事案については「判らない」はずです。しかし、年季を積んだ弁護士は、直感で何とかなりそうな事案と全く無理そうな事案の区別が付きます。この「判る」(出来そう)とか「判らない」(出来そうにない)という感覚を峻別するのは何でしょう?初めて経験するものでも判る事案はそれが前もって馴染んでいた事案と<同類>であると認識できるからであり、判らない事案はそれが前もって馴染んでいた事案と<異質>であると認識するからです。もっとも、前にやった事案と似ているといっても事案の内容が異なる以上は簡単に「判った」と言ってしまってはいけないのです。言い得るのは「判らない訳ではない」ということであり、その後は事案を「判る」ための努力が必要になります。おそらく、判るための努力が比較的に少なくて済む状態をたぶん「判る」というのです。これに対して、相当の努力をしてもプロとして一定の理解レベルに達し得ない状態を「判らない」というのでありましょう。