5者のコラム 「易者」Vol.40

聖なる書物と場所

 西垣通「ウェブ社会をどう生きるか」(岩波新書)に以下の記述があります。

一神教というのは経典宗教つまり「聖なる書物」をいただく宗教です。日本の神道をふくめ民族固有の多くの宗教はいわゆる「場」の宗教で、特定の尊い場所(神社とか山とか滝など)に行くとそこに神が鎮座しているわけです。しかし一神教では神は超越的なところにいて、その言葉の中に聖性が宿ることになります。ゆえに神の言葉を預かる預言者や神の言葉を記した聖なる書物が大切になるのです。 

 西洋キリスト教文明における法のイメージは超越的な神の語る言葉です。神は目に見えませんから、これを代わりに語る人(預言者)が必要になります。西洋キリスト教文明において神の言葉たる法を語る法曹に預言者的イメージが託されるのはそのためです。日本における法のイメージは特定の国家機関という場所です。国家機関が制定する法規が国民のイメージに合致しています。法曹は使う言葉の内容によってではなく働いている場所によって権威を感じられています。法律事務所が判例集の膨大な蓄積を誇っていたのも、かような場所的権威を示すためであったと私は思います。かような差異は文化的優劣を表すものではありません(一神教が優れており民族固有の宗教が劣っているなどとは私は全く思いません)。ただ、日本社会は法について特定の場所との関連でこれを考える傾向が強すぎると感じます。市民の多くが「法は・全ての場所で・全ての人に・平等に適用される」という感覚を持っていません。かつて憲法・行政法には特別権力関係という考え方が存在し、「特殊な場所では特殊な法体系に服するのが当然だ」という議論が横行していました。現在、特別権力関係を大まじめに主張する法律家は存在しなくなりましたが、例えば企業で「我が社には労働法は関係ない」、学校で「我が校には教育基本法は関係ない」と思っている方が存在するような気がします。

次の記事

戦後日本の外交政策