教育の成果としての「いじめ」
内田樹教授は「いじめ」という現象についてこう述べています。
私の見るところ「いじめ」というのは教育の失敗ではなく、むしろ教育の成果です。(略)「いじめ」は個人の邪悪さや暴力性だけに起因するのではありません。それも大きな原因ですが、それ以上に「いじめることは良いことだ」というイデオロギーが既に学校に入り込んでいるから起きているのです。生産性の低い個人に「無能」の烙印を押して排除すること。そのように冷遇されることは「自己責任だ」というのは現在の日本の組織の雇用においては既に常態です。「生産性の低いもの・採算のとれない部門のもの」はそれにふさわしい「処罰」を受けるべきだということを政治家もビジネスマンも公言している。そういう社会環境の中で「いじめ」は発生し増殖しています。教委が今回の「いじめ」を必死で隠蔽しようとしたのは彼らもまた「業務を適切に履行していない」が故に処罰の対象となりメディアや政治家からの「いじめ」のターゲットになることを恐れたからです。失態のあったものは「いじめ」を受けて当然だと信じていたからこそ教委は「いじめ」を隠蔽した。自分たちが「いじめ」の標的になることを恐れたからです。でも隠蔽できなかった。ですから、これから後メディアと政治家と市民たちから大津市の教員たちと教委は集中攻撃を受けることでしょう。でもそのような「出来の悪いもの」に対する節度を欠いた他罰的なふるまいそのものが子供たちの「いじめマインド」を強化していることについてはもうすこし不安を抱くべきでしょう。
日本社会に「いじめ」が蔓延しています。子供はその構造を観察し学んでいるのです。子供は大人が「言っていること」を学ぶのではなく「していること」を学びます。子供たちは自殺した生徒の行動によって加害生徒のみならず教員や管理者たちが世間から集中攻撃を受ける様子を観て自殺の積極的意義をも学んだに違いありません。悲しむべきことです。