弁護士の言動による心の傷
H・S・クシュナーは「なぜ私だけが苦しむのか・現代のヨブ記」(岩波現代文庫)において、次のように述べています。
私のところには次から次へと牧師や神父あるいは同じ信仰の仲間の言動に以前にも増して心の傷を大きくし悲しみが増してしまった体験を綴った手紙が寄せられています。(略)宗教があまり役に立っていないことの理由は多分ほとんどの宗教が悲嘆にくれている人々に対し、彼らの痛みをやわらげようとするよりも、多くの思いと時を、神を正当化し弁護することのみに向け「悲劇も本当はよいことであるし不幸に思えるこの状況も本当のところは神の偉大なご計画の中にあるのだ」と説得しているように思います。例えば「長い目で見れば、この経験がいつかあなたをより良い人間にしてくれるのですよ」とか「あなたに与えられた多くのものに感謝しなさいよ」あるいは「神さまは本当に無垢で美しい者だけを天国に召されるのだから」といった慰めの言葉は、どんなに善意のつもりであったとしても傷つき痛みに耐えている人々にとっては「自分を可哀想がるのは止めなさい。このことがあなたに起こったのにはちゃんとした理由があるのですよ」 とたしなめているように感じるのです。悲しみのただ中にある人にとっていちばん必要なことは説教の言葉なのではなく慰めを与えてくれる人なのです。温かく抱きしめてもらえたり、ほんの少しの間でもだまって聞いてもらえたなら、どんなに学識豊かな神学的説明を聞かされるより勇気を感じるものなのです。
弁護士の言動により以前に増して心の傷を大きくする相談者がいることを私は知っています。悲しみの中にある人にとって必要なものが説教ではなく慰めであるならば弁護士はかような相談に関しては (少なくとも初期の段階は)法的判断枠組を押しつけるのではなく少しの間でもだまって話を聞く姿勢で臨むほうが良い。被害者はどんなに学識豊かな説明を聞かされるよりも、ただ黙って苦しみを聞いてもらえる方が勇気を感じるものです。