世間と折り合いを付けること
「ハーメルンの笛吹男」で著名な阿部謹也教授の晩年の主張を私なりに(乱暴に)整理すれば概ね以下のようになります。
日本の学者は庶民が対峙している「世間」を問題にせずに輸入学問としての「社会」を議論している。しかし「社会」は日本の庶民が実感している対人関係の規律原理ではない。学問とは、それを議論しない事には自分が生きていけないテーマを探し一生をかけて極めてゆく事である。そのようなものでないとしたら、この国で学問をすることにいかなる意味があるか?庶民が実感している対人関係の規律原理が「世間」なのだとすれば「世間」をこそ対象化して学問的検討を加えるべきではないのか?
当時の自分にとって世間を対象化して生きうる場所を見いだすことは憧れの的でした。自分の息苦しさ(生きにくさ)を決定しているものが「世間」であることを認識し始めた私が、世間の呪術を切り裂く破壊力をもつ法律的論理に興味を抱くまでに時間はかかりませんでした。正直に言えば、当時の哲学や社会学の流れに強い違和感を感じ、この方向で勉強を続けることに嫌気がさしていたこともあります。司法試験を受けることは、全てのことに行き詰まっていた自分にとって最後の敗者復活戦のようなものでありました。弁護士業務を行ってみると逆に法律的論理に違和感を感じるようになりました。他方で学生の頃はすこしバカにしていた「世間に生きる庶民」こそ自分の依頼者であり、その方々の支え無しでは生きていけないことがだんだん判ってきました。司法修習生の頃に教わった「5者」のたとえが深い意味をもって私に迫ってきたのです。世間は安易に依拠すべきものではありませんが、簡単に排斥すべき対象でもありません。 私のテーマは世間と距離を置きつつ世間と折り合いをつけること「5者としての弁護士」を考え続けていくことです。