5者のコラム 「役者」Vol.52

ひきこもりの規範的解釈

 映画「アンダンテ・稲の旋律」を拝見。主人公の藪崎千華(新妻聖子)は対人恐怖ひきこもりの30歳。母親の期待(ピアノ演奏者としての成功という自分が果たせなかった夢の実現)により子どものころから不自由で、やがて登校拒否になり大学は中退。効率に追われる職場の人間関係に疲れ切り、カーテンを閉めたまま一日中暗い部屋に閉じこもっている。ある日、電車に乗って横芝光町(千葉県)の田んぼの中に「誰か私を助けてください」という手紙が入ったペットボトルを置いてくる。それを拾ったのが自然農業に取り組む中年男性・広瀬晋平(筧利夫)。2人の交流が始まり千華の人間性回復への物語がスタートする。季節ごとに表情を変える水田の美しい風景がふんだんに使われ、稲の成長は千華のひきこもり生活からの回復に重ね合わされる。母親とのわだかまりが解かれ、稲の中の舞台でパッヘルベルのカノンを弾く千華の姿が雄大に描かれる。
 有機農業者の視点から経済効率万能の現代社会を批判する構成には異論があり得ましょうし、農家の跡取りがこんなにモテる訳がないというツッコミもありましょう。それは横に置いときます。この映画の中核にあるのは、家庭と職場という2つの大切な舞台において人間が異常事態にされされた時自分を守るための防衛機制として引きこもる観点です。以前「PTSDとは異常な事態に対する心の正常な反応なのだ」という精神科医の話を聞いたことがありますが、対人恐怖ひきこもりも同様に考えることが出来ます。社会からマイナス評価を受け得る逸脱的事象(精神的不調・ひきこもり・不登校)も、その後の大いなる成長のための可能性(難しい言葉を使えばベンショーホー的契機)を含んでいます。私は逸脱現象に対するロマンチックな解釈(肯定的すぎる評価)をするわけではありませんが、過度の道徳的断罪をする世間的解釈(否定的すぎる評価)も好きではありません。

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