5者のコラム 「易者」Vol.160

ともに悲嘆を生きる

森本斎先生の島薗進「ともに悲嘆を生きる」(朝日新聞出版)に対する書評。

私は幼い頃に父方の祖父を自殺で亡くした。父は小学校の時に蒸発した。高校生の時に親友が自殺した。大人になってから若い友人を病気で亡くした。最近も母方の祖父が天寿を全うした。その度に私は悲嘆にくれる。「悲嘆」などという言葉で言い尽くせない喪失感に襲われる。そう。死は身近なものであるにもかかわらず、死そのものには一向に慣れることなどない。自分の死も恐ろしい。本書は、こうした死を迎え入れる方法を、実は宗教なるものが培ってきたということを教えてくれる知恵の指南書だ。もちろん、その死を迎え入れる状況はその都度その人それぞれだ。自殺だってある。病気だっである。人間は生きている以上死ぬわけで、その死をどうやって私たちは受け入れて生きてきたのだろうか。(西日本新聞)

「悲嘆にくれる人」と日常的に接しています。小学校の時に親が蒸発した人・親を自殺で亡くした人・大切な子供を病気や事故で亡くした人・自分自身が自殺を試みた人など数え切れません。肉親を災害で亡くした方や理不尽な事故で亡くした方も目立ちます。何時になっても「悲嘆にくれる人と向き合うこと」に慣れることはありません。思うに「悲嘆にくれる人」と接するときに自分の支えになるのは法律知識ではない。雄弁さや明るさでもない。多くの実務法曹が依拠してきた対処の基本精神はソフトな宗教的感覚ではなかったかと感じます。それは著名な実務法曹の中に良い信仰心を有しておられる方が多く見受けられることとも符合します。ただ、私は「宗教心を持たなければ悲嘆にくれる人と接することが出来ない」と主張するものではありません。弁護士は人間存在の弱さに対する「謙虚な意識を持つこと」が必要ではないかと考えているだけです。

前の記事

僕には師匠がいない

次の記事

息抜きとしての小文New!!