既に為した選択を肯定するように生きる
植島啓司「偶然のチカラ」(集英社新書)に次の記述があります。
人は果たして選択が正しかったのかどうかを決して自分で確かめることは出来ない。それなのに結果はひとつ。(略)もしどちらかを選択したら、もう一方の結果は見えないままで、その選択が正しかったのかどうか確かめる手はない。もしあちらを選んでいたら果たして正解だったのか、それとも大きな不幸に見舞われることになったのか。こちらを選んだのは良かったのか悪かったのか、それも永遠に判らないままだ。今が良くても子供に災いが及ぶかもしれないし、逆に今が悪くとも子供たちにはとんでもない恩恵がもたらされるかもしれない。誰にもそれは判らない。しかし、概ね人生とはそういったことの繰り返しであって、どこにも「合理的な」判断など見つかりはしないのである。
この仕事をやっていると結論が出た後「自分の判断は正しかったのか」と思い悩む依頼者に出会うときがあります。たとえば離婚事件。交渉・調停・訴訟と続く法的手続に依頼者は膨大なエネルギーを使います。最終的に事件が解決して戸籍届出も終わったとき急に「これは果たして正解だったのか」と思い悩む人がいるのです。離婚という選択が正しかったかどうかを(離婚しなかった場合と比較して)確かめることなど出来ません。どちらかを選択したら、もう一方の選択は捨てなければならないのです。人生は択一の連続ですから、過去の選択を悔いるよりも「既になした選択を肯定するように生きる」ほうが気は楽です。自分の下した決断に迷っている依頼者がいれば私はこうアドバイスしたいと思います。「この選択が正しかったのか?今の時点では誰も判りません。でも何もしないままであれば別の意味であなたは悩んでいたでしょう。自分が死ぬときに振り返って、あのときに決断しておいて良かった、と思えれば良いのではありませんか?この決断が良かったか否かなんて今は誰にも判らない。それは今後のあなたの生き方が決めるのです。」