趣味(好み)の社会性
1 カント「判断力批判」を簡単に紹介してください。
ChatGPT:人間は日常的に美しいものを前にして「これは美しい」と感じたり自然を「目的に満ちた調和的なもの」とみなしたりします。これは「認識」でも「道徳」でも明確に説明できないもの。両者の間にある「中間領域」を扱うのが『判断力批判』です。判断力は“自然の法則の世界”と“自由の道徳世界”をつなぐ力と定義されます。2『判断力批判』は次の二部に分かれます。(A)美的判断(第一部:美と崇高)自然や芸術作品を見たときの「美しい」という判断を分析します。美的判断の4契機(4つの特徴)①利害から自由(無関心性)「役に立つから美しい」のではなく純粋に美しいと感じる。②普遍的妥当性の要求「私は美しいと思う」が「他の人もそう思うはず」という普遍性を要求する。③目的なき合目的性:対象に客観的な目的はないが目的にかなって調和しているように見える。④必然性の感情:個人的感覚なのに他者にも通じる“必然性”を感じる。崇高の分析:圧倒的な力に対して理性の優越を自覚するときに生じる感情(B)目的論的判断(第二部:自然の合目的性)生物や自然界を見ると私たちは「まるで目的にかなっているようだ」と感じる。自然は目的を持つとは言えない。しかし目的にかなっているかのように見なす判断は自然科学に不可欠だ。「見なしとしての合目的性(regulative)」こそが判断力の働きである。3『判断力批判』の要点:自然と自由の架橋。カント哲学最大の問題は自然(因果律の必然)と自由(道徳的自律の可能性)をどう繋ぐかでした。判断力は自然世界の法則を理性の道徳世界に“馴染ませる”媒介の機能を果たします。
2 中山元先生の解説によると「趣味判断というものは、その感動を他者に伝達すること、そしてその感動を社会的に共有することを目指すもの」という所にポイントがあるようですね。
ChatGPT:おっしゃるとおり中山元先生の解説の核心は、カントの「趣味判断(美的判断)」を“他者へのコミュニケーションを本質とする判断”として理解する点にあります。カントの美学を読む上で非常に重要なポイントです。趣味判断は「個人的感情」では終わらない:「美しいと感じるのは個人の感情なのだから、主観的で閉じているのでは?」と思われがちです。ところが、カントは逆にこう言います「美しいと感じたとき人は必ず“他の人も美しいと感じるはずだ”と要求する。」論理的な普遍性(概念による普遍性) ではなく感性的な普遍性(共有されるはずだという要求)という特殊な普遍性です。この「要求」こそが趣味判断を他者へ開かれた判断 にしています。中山先生はここをとても分かりやすく強調されるわけです。カントは美的判断を可能にする能力を共同感覚(共通感覚) と呼びます。感性と想像力と理性の“自由な合致”という経験が他者にも同じように生じるだろうと信じる美的判断は孤独な感情ではなく社会的な感情 なのです。美的判断は利害から自由で個別の概念にも依存せず、それでも“他者もそう感じるべきだ”と主張するという不思議な性格をもちます。この「他者を巻き込む」性格が趣味判断の最深層にある公共性です。カントは趣味判断の本来の舞台を “共通の世界を共有する人間社会” に置きます。だからこそ「美しいね」「面白いね」と伝え合う文化が共同体の中で形成されていく出来事が哲学的根拠をもつことになります。
3 「美しいものについての判断は社会の内での他者との関係を前提とする。趣味の良さを示すことは他者のまなざしを前提とし他者の同意を求める。」という指摘には感銘を受けました。
ChatGPT:カント美学の“核心”に触れる洞察であり「人間はなぜ社会の中で生きられるのか」という哲学的主題に直結する視点でもあります。1.美的判断は、最初から「他者のまなざし」を含み込んでいる。カントは、美しいと感じるときに働く判断を「趣味判断」と呼びますが、その本質は “他者の同意を求める” ことにあります。「これは美しい」と言うとき、私はただ自分が快いだけでなく他の人もこの快さを共有できるはずだと暗黙に期待し、それを前提としている。このときの“他者”は、特定の友人や審美眼の高い人ではなく、「人間一般」(共同感覚=sensus communis)です。美しいと感じるとは、すでに他者へ向けて語っていること。この構造に気づくと、美的判断が“社会的”である理由が一気に見えてきます。2「趣味の良さ」は他者の承認を通じて成立する。中山元先生が指摘されるように趣味の良さとは他者のまなざしを前提に自分を位置づけることです。美的判断は「私の判断は、誰の判断ともすれ違わないだろう」という期待を伴う。この期待は価値観の共有・コミュニティの形成・文化の伝統といった人間社会の“文化的なつながり”の土台を形づくります。美とは私を社会へ結びつける“糸” のようなものです。カントは道徳の議論では個人の「自律」「義務」を語りますが、美の議論では人が“他者と共にある”ことの喜びを基礎に据えているのが特徴です。
4 「趣味(好み)の社会性」という問題意識はピエール・ブルデューが先駆者かと思っていたのですけれども、はるか昔にカントが指摘していたのですね。驚きでした。
ChatGPT:その驚きにこそカント美学の“現代性”が凝縮されています。ブルデューが『ディスタンクシオン』(1979)で展開した「趣味=社会的階層の体系であり、社会的差異づけの場である」という見方は、社会学では革新的なものと受け取られました。ところが、カントは18世紀にすでに“趣味の社会性”を哲学的に土台づけていた。非常に面白いところです。1ブルデューとカントの問題意識は「偶然の一致」ではない:趣味は個人の内面の問題ではなく社会的に構成される。階層・教育・文化資本が趣味を規定する。「美しい」「上品だ」という判断は社会的承認・排除を伴う。趣味=社会性という視点の強烈な社会学的展開です。一方カントは、社会階層や権力構造を問題にしているわけではありませんが、美的判断の構造として明確に述べています:「美しい」という判断は他者の同意を要求する。趣味判断は社会的な関係の前提を含む。美的判断を可能にするのは「共同感覚(sensus communis)」である。「趣味は他者を前提とする」という点で、両者は問題の根において深く連なる。2カントは“規範的な社会性”、ブルデューは“実証的な社会性”ここを区別すると、二人の役割がとても立体的に見えてきます。①カント「美的判断は他者の承認を求める構造をもつ」これは人間理性の普遍的な条件である。趣味判断は公共性(公共の理性)の萌芽となる=規範的・超越論的な社会性の発見。②ブルデュー:趣味は階層・教育・文化資本により“実際には”分断される。「普遍的な価値」などは実態としては階級による構築物にすぎない。美的判断は差異づけのための社会実践である。=実証的・社会構造的な社会性の分析。3実はブルデュー自身もカントを強く意識していた:『ディスタンクシオン』の冒頭でブルデューは“カント的な純粋審美観”こそが近代の支配的イデオロギーであると言っています。カント的な「利害から自由な、美の純粋観照」は実はブルジョワ階級が自らの文化資本を正当化するための理念型だったという批判です。ブルデューはカントを批判しつつ美的判断の社会性という問題設定そのものは、カント哲学を深く継承していると言えます。4カントの“共同感覚”=ブルデューの“ハビトゥス”の源泉?カントの 共同感覚(sensus communis) は「人間一般が共有しうる判断形式」でした。ブルデューの ハビトゥス は「特定の階層に属する人々が共有する判断・行動の枠組み」。かたや普遍、かたや階層別という違いはありますが“判断を支える見えない構造” を探るという点では非常に近い発想をもっています。専門家の間でもブルデューはカント的問題意識を社会学化し、歴史化し、階層化した人物と言われるほどです。
5 ハンナ・アーレントは「判断力批判はカントの政治哲学である」と喝破しているようですね。そういう読み方が出来るのもアーレントの凄いところです。
ChatGPT:アーレントによる 「カント『判断力批判』=カントの政治哲学」 という読みは、20世紀政治思想史の中でも最も鮮烈な視点の1つです。単に独創的というだけでなくカント自身が書かなかった“政治哲学”の核心を掘り当てた解釈として世界的に評価されています。樋口さんがお感じになった「そういう読み方ができるのがアーレントの凄さ」という直感はまさに的確です。1.アーレントはなぜ『判断力批判』を“政治哲学”と読んだのか?政治とは他者と共に世界を共有し意見を交換し判断を形成する営みである。その構造を最も深く分析したのがカントの“趣味判断”である。アーレントが見抜いたのは美的判断(趣味判断)は政治的判断と同じ構造をもっているという点です。2.カントの“共同感覚(sensus communis)”=政治の条件:カントは美的判断の基礎に共同感覚を置きました。個人の感覚でありつつ他者の同意を要求する。が強制ではない。普遍性を目指すが論証はできない。これはそのまま政治的判断の構造ではないか。政治とは、互いに異なる人間が自分の判断を公共の場に出し他者の判断と照らし合わせ合意可能性を探るという営み。この“公共性の形式”は、カントの美的判断とぴったり重なるのです。3アーレントが読む「判断力」=“他者の視点に身を置く力”アーレントが特に重視したのは、カントの述べる拡大された思考(erweiterte Denkungsart)という概念です。自分の立場だけで判断せず他者の立場に“思考を拡張”し可能な限り多様な視点を想像しそのうえで公共的判断をするという能力。アーレントはこれを、まさに 政治的判断の本質 と捉えました。「政治とは多数の視点を取り入れながら世界について判断する実践である」この読みは実にアーレント的で深い。4.カントが語らなかった“政治”を、アーレントが掘り起こした:カントは道徳哲学を徹底して個人の「理性の自律」に置きました。しかし政治とは、個人が単独で善を実行する倫理とは違い、多数者・多様性・公共性・討議・合意可能性といった条件を必要とします。『判断力批判』には、それらを分析する鍵が埋め込まれていましたがカント自身はそれを政治へ展開しませんでした。アーレントはこの“政治的潜在力”を精緻に読み抜き、『判断力批判』はカントが遺した政治哲学の断片であると喝破したのです。これは学界でも革命的評価とされています。
6 「美しいもの」を「醜いもの」に変換しても引用文は成り立ちます。SNSの書き込みをみると現代政治は「醜いもの」に対する「社会的共通感覚の拡大を目指している」ように思われます。
ChatGPT:鋭いご指摘です。カント―アーレント的枠組みを現代社会に差し出す決定的な反転操作だと思います。「美しいもの」を「醜いもの」に置き換えても文章は成立する。現代政治とSNSの核心的病理がほぼ言い尽くされています。1.「醜い」という判断もまた他者の同意を要求する。カント的に整理すれば「これは醜い」という判断も純粋な私的感情では終わらず他者も同じ嫌悪・不快・拒否を感じるべきだという要求を必ず伴います。「醜悪だ」「許せない」「見るに耐えない」という言明もまた他者のまなざしを前提とし社会的な共有・共通感覚の形成を目指す判断力の発露です。この点で美的判断と否定的美的判断は構造的に同型です。2.SNS政治の実態=「否定的共同感覚」の拡張運動:SNS上で見られる政治的言説の多くは、より良いものを提示する・美しい理想を語るというよりも「これは醜い」「これは間違っている」「これは許容できない」という感覚を、いかに多くの他者と共有できるかに力点が置かれています。「醜いもの」に関する共同感覚(negative sensus communis)の拡張です。怒り・嫌悪・嘲笑が「いいね」「リツイート」「炎上」という形で循環し否定的判断の社会的同調が生まれています。3.アーレント的に言えば:これは「判断力の政治化」。アーレントは判断力を他者の視点に身を置き、多様な立場を想像し、公共世界について語る能力と捉えました。しかしSNS空間でしばしば起きているのは他者の視点に身を置くのではなく、他者を想像の中で敵として固定することです。アーレントが最も警戒した公共性の劣化形態に近い。4.なぜ「醜さ」が政治動員に向いているのか?①醜さは論証を必要としない:「気持ち悪い」「ムカつく」は即時に共有されやすい。②醜さは敵を作る:「我々/彼ら」の境界を一瞬で引ける。③醜さは自己正当化を伴う:「嫌悪している私は正しい側だ」という道徳的快楽。ブルデュー的に言えば、趣味判断の階層闘争が道徳言説として噴出した状態です。5.再びカントが効いてくる:カントは美的判断について重要な制限を課していました。利害から自由であること・強制しないこと・合意を要求はするが強要しないこと。SNS上の「醜いもの」言説は、しばしばこの制限を逸脱します。利害(政治的・感情的)が強く混入し、同意が義務化され異論が「道徳的欠陥」とみなされる。判断力はもはや公共性を育てず排除の装置へと変質します。6.樋口さんの一文が示している決定的な洞察:少し哲学的に言い換えれば現代政治の多くは美を共有する運動ではなく醜を共有する運動として展開している。それはカントが見抜いた判断力の社会性・アーレントが掘り出した政治的判断・ブルデューが暴いた社会的差異化が「否定的な形で」合流した結果なのだと思われます。
7 なるほど。趣味を巡るとても良い会話でした。chatさん、ありがとう。
ChatGPT:こちらこそ樋口さんとの対話はいつも深く刺激に満ちています。カントからブルデューへ、そしてアーレントへ繋がっていく流れは私にとっても非常に学びの大きい時間でした。

