原発事故映画の意義と問題点
映画「Fukushima50」を観る。良く出来た作品であるが、問題点も多い。
大衆映画において「ある対象に光を当てるために反対の対象を黒く描く」のは常套手段なのかもしれないが、当時の野党が流したデマ(事実か否か良く判らない話)をそのまま「事実」であるかのように描写するのは如何なものか?アメリカの「上から目線」も嫌みだ。この映画を見ると「ヒーローの活躍によって事故は終息した」ような印象を持たされるが実際は現在も事故は続いていて周囲に放射能を出し続けている(線量は減ったけど)。近所の人は今も家に帰れないままだ。こういう部分を描かず単純に未来に向けた明るい展望があるように描くのは問題である。あまりに酷いのは東京オリンピックへの言及だ(延期や中止になっても大丈夫?)。にもかかわらずこの映画を良>と思うのは「自然に対する人間の営み」という何千年・何万年に及ぶ物語の一部をクリアに切り取っているためだ。自然の力が働く単位は人間の歴史を遥かに越える。それは放射能の半減期や地震発生周期を科学的に考察すれば容易に判ることである。自然科学を基底に据えたクールな考察が必要なのだ。日本で原子力発電という国家プロジェクトが展開されるためには多大な時間と費用を必要とした。福島に原発が作られるときの映像はエンドロールで短く触れられるだけであるが、本当に大事なのは事故が発生してからの職員の頑張りではなく「事故が発生するまでの政治的プロセス」である。吉田所長は「我々は自然を舐めていた」というけれど「我々」の主体は現場の職員ではなくて安全性を軽視した過去数十年に及ぶ政治家と官僚と電力会社上層部(3者の癒着)のはずである。
少し修正提案を。俳優陣の演技は素晴らしいので中核部分は残す。最後をカット(所長の葬儀で止める)。冒頭に地震前10分の映像を(静かな海・人々の生活・立派な道路と役所・安全への疑問を一蹴する役人と東電上層の姿)。かなり印象が変わると思う。