ちょっと寄り道(出雲1)
「竹内まりや」コンサート(2025/5/10)のチケットが取れたので予習を兼ねて同年4月に出雲を訪れました(竹野屋旅館に泊まるのが主目的です)。以前松江を訪れたときに一畑電車乗車をかねて足を延ばしたことがありますが「出雲を主眼として」訪れるのは今回が初めてです。
(参考文献:大社史話会「出雲国大社観光史~参拝地から観光地へ」、平岡昭利編著「地図で読む百年:中国四国」古今書院、NHK「ブラタモリ№4」角川書店、千家尊統「出雲大社」雄山閣、瀧音能之「伊勢神宮と出雲大社」青春出版社、松前健「出雲神話」講談社学術文庫など)
福岡空港を1745に飛び立つJACの席を私は確保していた。小型の飛行機ATRに乗るのを楽しみにしていた。早めに福岡空港に着いた私は軽く食事をとり、いつものとおり保安検査場に向かった。軽く抜けられると思っていた矢先、カードをかざした機械はいつもと違う反応をした。職員さんから「こちらへ」と誘導された私に向けられる他の方々の眼差しが厳しい。「私が何をしたというのだ」心の中で叫びながら近くの空いたスペースに連行された私は空港職員から驚愕の事実を知らされた。
前の空港が悪天候で使用機材が離陸できないので残念ながら欠航が決まりました。
ホテルも・旅館も・大まかな旅程も固めている。今更この出雲の旅を中止するなんてあり得ない。お天道様に文句を言っても仕方がない。空路がダメなら陸路で向かう方法を考える。今日中に出雲にたどり着ける方法は1つしかない。新幹線で岡山まで行き、在来線の特急で出雲へ向かうことだ。とにかく博多駅に行くしかない。空港と駅が近くて便利な福岡に住んでいることに感謝した。何とかチケットを得て東京行き「のぞみ」54号に乗車。岡山で降車し出雲市行き「特急やくも」に乗り換えを完了する。ほっとした。途中「サンライズ出雲」が反対側からやってきた。米子駅では「トワイライトエクスプレス瑞風」に遭遇した。鉄道好きの人はたまらないだろうな、と想像する。暇つぶしの為に上述の経過をFBに上げたら私自身が凄い鉄オタのように思われたらしい(私は鉄の「初心者」なので誤解しないように)。コメントへの返信をしているうちに列車はJR出雲市駅に到着した。
JR出雲市駅裏口の目前にある「ドーミーイン」にチェックイン。ドーミーインでは夕食に「夜鳴きそば」をいただくのが常だが夜10時半なので我慢した。夜遅く食事をとると翌朝のお腹の調子が悪い予感がしたのだ。温泉に入る気分にもならず速攻でベッドに入り眠った(私は朝型人間)。
翌朝5時ころ起床。温泉に浸かり昨夜の疲れを取る。旅はまだ始まったばかりだ。6時前に街歩きに出発。近くのコンビニで「1日分のビタミン」を摂取した。頭の中の地図を頼りに今市中心部と思われる方向に向かって街並みを歩く(私はスマホの地図を頼りに散歩するのが嫌いだ)。今市は室町時代以来の「市」の伝統を持つ商業地帯。だからこそ鉄道の駅が置かれたのだ。元町通りを北に向かって歩く。古い街並みを抜けると右手にアーケード街。だいぶ寂れていると言わざるを得ない。ここを通り過ぎると右手に「八雲神社」が現れた。森高千里の名曲「渡良瀬橋」をイメージするも後で調べたら群馬県の八雲神社との直接的な関連はないようである。その北側を流れる高瀬川の掘割を眺めて思案。この堀は自然河川ではなく今市を発展させるために開削された人工河川らしい。くにびき中央通りを駅方向に戻る。出雲神話を題材にしたブロンズ像(小型)が道路脇に多数設置されている。これらの像は「出雲において神話がいかに大切な意味を持っているか」ストレートに物語ってくれる。ホテルに帰還。朝食は抜きのプランにしていたので7時半頃直ぐにチェックアウトする。
JR出雲市駅に隣接する高級ホテル「ツインリーブス」は一畑電鉄が運営している。その一畑電車の乗車口は先のほうにあり建物の2階から乗車。懐かしいワンマン車両が楽しい。大津町駅を超えると線路は北に向かう。遠くに見える島根半島の山々が美しい。杉を植えすぎ醜くなった九州の多くの山々に比較して出雲の山々は日本古来の照葉樹林であり落ち着いた色合いを見せる。特にこの時期は桜のピンクがあちこちに見られる。川跡駅にて出雲大社駅行の電車に乗り換え。昔ながらの駅の風景に心が和む。平日なので多くの通勤客や学生さんが乗車している。窓の右手には美しい山々が連なる。昔ながらの照葉樹林が本当に見事だ。一畑電車出雲大社前駅(昭和5年)で降りる。モダンな駅のデザインが周囲と調和している。壁面上部のカラフルなステンドグラスがキレイ。駅前の「神門通り」は旧国鉄の駅が出来ることによって大正2年に開通された新しい道路である。その意味は「旧国鉄大社駅」のところで追って議論することにしよう。今夜の宿「竹野屋旅館」に着く。今回の旅の主たる目的はこの旅館に泊まることにある(詳細は明日)。フロントに荷物を預けて元気よく出発する。
土産物屋が並ぶ「神門通り」を登りながら北に歩く。「ご縁横丁」手前左脇に急な階段がある。坂下と坂上に相当の高度差があることが了解される。それは即ち「この道路が自然地形ではないこと」即ち「近時の造成工事により盛土されたものであること」を端的に物語っている。
坂を上り切ったところにある「勢溜」(せいだまり)は特殊な空間である(昔は砂丘だった)。江戸時代この地は公共空間的な意味合いを持ち、縁日には大勢の人が集まった。そのため「人の勢いが溜まるところ」という趣旨で「勢溜」と呼ばれるようになった。ここは本来「通路」ではなくて見晴らしの良い「高台の広場」であった。芝居小屋(大鳥居小屋)の他、警察署・旅館・土産物屋・民家などが立ち並び「これが改造は多年の懸念」と言われていた(観光史110頁)。
二の鳥居の脇に「千家尊福」の銅像が立つ。明治5(1872)年に28歳で出雲国造を襲名し(何と第80代!)出雲大社大宮司に就任した。元老院・衆議院の議員を経て埼玉・静岡・東京の各知事も歴任。司法大臣も務めた。千家の名が広く一般に知られているのは(明治政府が太陽暦を採用した際に制作された)「一月一日」の作詞者としてである。皆が口ずさむ「年の初めのためしとて」で始まる軽快なメロディーは太陽暦定着に絶大な効果を発揮した。「神門通り」の名称も千家尊福の命名による。「出雲国造」という存在が出雲においてどれほど巨大なブランドかが判る。
祓の橋(下は八雲山に水源を持つ素鷲川)まで続く広場は昔違う風景が存在した。仏教施設が多く並んでいた。出雲大社は「寛文の遷宮」を契機に境内から仏教施設や鰐淵寺僧を一掃し400年余りに及ぶ「鰐淵寺」との関係に終止符を打った(第68代国造尊光の決断による・尊統188頁)。全国に先駆けて行われた「神仏分離」は日本宗教史において重要な出来事として位置づけられている。出雲大社「神苑」は大正12年5月に着工、昭和9年10月まで11年余をかけて行われた大工事だった。この間に31戸に及ぶ家屋の移転が行われた。現在の大社の風景は昔とかなり違うのである。
出雲大社が多くの参拝者で賑わうようになったのは江戸時代中期以降である。出雲の巨大な社殿を遷宮するためには巨額を要する。当初は幕府が拠出したが、後に幕府の財政余力がなくなり拠出できなくなった。そのために幕府は大社(当時は「杵築大社」といった)に「富くじ」の発行を認めたのだ。8日間の発売期間だけで現在価値「23億円相当」の売上があったという。くじ抽選日は祭礼の最終日に設定され大いに盛り上がったようだ(富くじが廃止されたのは明治維新後)。遷宮費用の調達は富くじだけでは足りない。出雲信者を募る出雲御師(おし)なる神職たちが全国各地に赴き民衆を杵築大社に招き入れる活動を積極的に展開した(御師は現在の旅行代理店の如き役割をも担った)。御師の活躍で出雲神話を背景とする「大社信仰」が全国に広がり出雲門前町は大きく発展した。出雲大社は「カミが集まるところ」であるとともに「カネが集まるところ」でもあったのだ。
三の鳥居をくぐり松の参道を歩く。奥に見える八雲山(中央)亀山(右)鶴山(左)が美しい。出雲大社では自然を意識しなければならない。背後の山の美しさ・岩の美しさ・海の美しさ。これら雄大なる自然への素朴な原始的信仰があったところに「古事記」や「日本書紀」の語る神話が習合して「出雲信仰」が芽生えたと私は想像する(もちろん順番から言えば出雲神話が先に生まれ出雲併合に当たってヤマト政権が出雲の土着的信仰を「記紀」に取り入れたのだ)。右脇に結びの御神造(幸魂奇魂と大国主命)、左脇に慈愛の御神像(白ウサギと袋を背負った大国)がある。
手水舎で手を清めて四の鳥居をくぐる。銅製で天正8年(1580)毛利輝元によって寄進されたものである。ここからが真の出雲大社(古くは「杵築大社」)の聖なる空間となる。近世以降、大社本殿の遷宮は次のとおり行われている。「新造」慶長14(1609)寛文7(1667)延亮元(1744)「修造」文化6(1809)明治14(1881)昭和28(1953)平成25(2013)。直近の2013年は60年ぶりの遷宮であった。修理されたその本殿は延亮元年(270年前)に建てられたものだった。資金繰りだけでなく技術の承継でも大変な苦労があった(その苦労の一部は宝物館で紹介されている)。2019年3月「平成の大遷宮」は完了した。現在、本殿前に3つの円形が残されている。この場所にて2000年春に「古い柱」が発掘されたことを記念する。直径約1.35mもの巨木を3本組にしたもので、鎌倉時代の巨大柱の痕跡とされる。出雲大社は昔高さ48m(15階建てビルに相当)の高層建築だったという伝承がある。これを裏付ける証拠として考古学・建築学的にも貴重な意味があるらしい。
出雲大社は「旧歴10月に全国の神が集まる」と言われる。「十九社」はその際「神が宿泊する宿舎」の意味がある処とされる。出雲大社に神々が集まる旧歴10月は全国的に「神無月」だが出雲は「神有月」である(ただし10月は全国各地でコメの収穫祭が多く行われる・収穫祭に農業神がいないはずがない・「神無月」を巡る伝承はあくまで「物語」として味わうもののようである)。
本殿の背後にある「素鵞の社」は大国主命の父とされるスサノオノミコトを祀る。社の両側と裏の3か所に御砂が入った木箱が置かれている。稲佐の浜ですくってきた砂を納め、元からある乾いた砂をいただいて自宅等でまくと御利益があると信じられているそうだ。社の背後には美しい岩が連なっている。おそらくこの岩と背後の森林こそが古代における崇拝の対象だったのであり、海を舞台とした神話と習合し「古代出雲神話」の原型が形作られたのではないかと私は想像する。
国宝である本殿は(前からより)後や横から観るほうが高さと巨大さと威厳を感じられる。出雲大社の本殿自体は南向きに建てられているが中の神坐は海側(西)に向かい設置されている。出雲の神が海を強く意識していることを伺わせる(旧参道も西向き)。西の「一九社」前を通り本殿を1周して「宝物館」を見学する。展示は前述した2000春発掘直径約1.35m巨木3本組に大きな比重が置かれている。歴史を重んずる出雲大社にとってそれほど重大な発見だったのであろう。
祓社を通る。神楽殿には巨大な大注連縄があるが遠方からの見学で済ます。すぐ隣が千家国造館。代々の千家国造の住まわれる所である。前述した出雲における千家国造の存在感の巨大さを考えればここがどれほど神聖な場所か想像できる。ここから西南に向かう道が旧参道である。
信号を右折して西へ(海岸方向に)向かう。「阿国の道」と呼ばれている。左手に少し上がったところが出雲阿国のお墓である(昭和2年修復)。出雲阿国は杵築の鍛冶中村(小村)三右衛門の娘である。出雲大社の神前巫女となり、文禄年間に出雲大社「勧進」のため諸国を巡回したところ大評判となった。これが歌舞伎の元祖とされる。『当代記』によれば京で人気を得て伏見城に参上し度々踊ることがあったという。当初は四条河原の仮設小屋で興業を行っていたが、やがて北野天満宮に定舞台を張るに至った。北野天満宮祠官松梅院の僧禅昌は阿国の芸と人物に対する最も理解のある庇護者であった。慶長8年(1603年)5月6日には女院(新上東門院)御所で踊った記録がある。この頃に「かぶき踊」という名称が定着したとされる。内容も「少女」の小歌踊(ややこ踊)から傾き者(かぶきもの)が茶屋「女」と戯れる場面を含むアダルトものに変化したそうだ。阿国の歌舞伎は京や江戸で熱狂的に人気を博したので風紀の乱れを恐れる幕府は女性による歌舞伎を禁じた。
坂を下ると稲佐の浜。正面の浜辺奥に屏風岩(屛風のようにまっすぐに切り立っている岩)がある。弁天島ともいう。大国主大神と武甕槌神が「国譲りの交渉」をしたとの言い伝えがある。南に「国引きの時、島を結ぶ綱になった」とされる長浜海岸が続く。この浜は旧暦10月の神在月(他の土地は「神無月)全国の八百万の神々をお迎えする処である。この浜でとれる「塩」は縁起の良い塩として人気がある。この付近に旅館「養命館」があった。明治時代、日本に帰化し松江を愛したラフカディオ・ハーン(帰化後の小泉八雲)は稲佐浜海水浴場(明治21年)で海水浴を楽しみ養命館に宿泊した。小泉八雲の「八雲」とは出雲の枕詞「八雲立つ」からとったものである。
稲佐の浜は西の日本海に向けて開けているので夕陽が素晴らしいと聞く。まだ早い時間なので空は真っ青だが私は心の中に真っ赤な夕陽をイメージした。すると次の歌詞が浮かんできた。
二人で歌えば 懐かしくよみがえる ふるさとの夕焼けの やさしいあのぬくもり
海岸の鳥居から「神迎の道」を通って4つ角へ向かう。南北に走る「お宮通り」と東西に走る「神迎の道」は江戸時代出雲のメインストリートだった。旧参道と神迎道の交差点。東にある「荒木屋」が非常に有名であるが私は南にある「千鳥そば」に入店し出雲蕎麦を堪能した。当然ながら3段が基本であるが、あまりに美味しかったのでもう1段追加した。大満足。大社町の「杵築」地区の名称は出雲大社が古くは「杵築大社」と呼ばれていた名残りである。「御師」が大国様をたずさえて全国で「出雲信仰」を広めたことは前述したが杵築の一部の家には江戸時代の布教道具がまだ残っているようである。御師は様々なご利益を全国にもたらした。一番好評だったのが「縁結び」。特に江戸で「全国の神々が出雲に集まる」逸話が広まり縁結びの相談をすることが広まったようである。
市場通りを南に歩く。特異なデザインの「道の駅」を右目に見ながら右折する。しばらく歩くと左手に旧国鉄「大社」駅がある。私はこの駅舎に逢うのを楽しみにしていた。ところが何ということでしょう、改修時期に当たっていて駅舎全体に覆いがかけられていた(涙)。
旧大社線は島根県出雲市:出雲市駅と簸川郡大社町:大社駅を結ぶ全長7.5kmの路線として1912年に開業。出雲大社参拝客の足として親しまれていた。1950年代から1960年代にかけて東京発の夜行列車「出雲」は大社駅まで運転されていた。1980年頃まで遠方からの列車が大社駅まで乗り入れた。大社駅は出雲大社を模した堂々たる駅舎であった。付近には旅館が10軒、土産物屋や食堂が10軒以上あった。が、出雲大社から曲線道で徒歩20分以上離れた場所に設けられたので参拝客の便を考えて駅から出雲大社を結ぶための直線道が新たに作られた。これが現在の「神門通り」である。
大社線の経路や大社駅が離れた場所に設けられた理由は不可解だ。最初の敷設計画は大津町西端から今市小学校裏を経て大社町を通過、海岸線に沿って多岐村の小田駅附近に至るというものだった(西浜地内に測量杭が残る)。ところが「お社の附近に駅を設けたのでは参拝客が商店や旅館を素通りすることになるから町外れへ」という意見や「本線になったら旅客は大社に下車せず通過するから本線は困る・支線にすれば終点となるから旅客は大社へ降りる」等の反対意見が出て「支線にすべし」との運動が功を奏し現在のようになったらしい。駅の所在地に関しても論争があった。東側の「馬場」附近住民と西側の「市場」附近住民が誘致運動に乗り出した。この争いを時の鉄道院総裁である後藤新平が勢溜の高所から東南方を俯かんし「双方に便なるよう両地区を底辺とする正三角形の頂点にした方がよかろう」なる宣託を下したとの伝承がある。鉄道忌避伝説(繁華街を蒸気機関車が通るのを嫌がり離れた場所に駅を設置したとの逸話)もある。真相は良く判らない。
大社線はクルマの台頭で平成2年(1990)に廃止。観光機運が落ち込んで参拝客は激減した。観光客の激減でシャッター通りになった神門通りは地元の事業として大改装された。女性向け「縁結び」にちなんだスイーツ店が多く誘致された。神社を「パワースポット」と呼ぶ流行に乗り観光客は年間800万人に回復した(が、コロナ禍で再び打撃を受けた・事後の回復はしたのかな?)。
宇迦橋は工事中。左に迂回しながら大鳥居脇を過ぎる。一畑電鉄大社前駅の付近で買い物。線路の駅直前の橋は「柳橋」という。駅の北部堀川沿いの一角(馬場通りから南側)が柳町遊郭(大正13年設置)だった名残だ。大寺社の門前には色町とともに芝居小屋があるのが普通である。出雲においても大正13年(1924)に「阿国座(勢溜から神門通り沿いに移転)」「中村お国座(海岸近く)」「行楽館(柳町近く)」が相次いで竣工している。大社駅に観光客が到着すると、これら芝居小屋で演芸を見せ、その後分宿するシステムが確立していた。最盛期は昭和7・8年頃だった。特に駅に近い行楽館では、安来節・落語・浪花節を中心とした興行芸能が盛んに行われていた。しかし(売春防止法の施行による)遊郭の廃止とともに芝居小屋も下火になっていき最後は全滅した。
平成16年(2004)出雲市は琴平町(香川県)と友好都市提携協定を締結している。出雲大社と金毘羅宮はともに主祭神として大国主命(大己貴命)を祀っている。歌舞伎が盛んだったところも共通する。琴平町の「金毘羅大芝居(金丸座)」は江戸時代の大規模な歌舞伎劇場で唯一現存している。セリやスッポンといった舞台装置も見ることができ当時の熱狂振りを感じることができる。かような歌舞伎の痕跡が「出雲阿国の故郷」に残されていないのは誠に残念である。
「竹野屋旅館」に戻る。部屋に通される。古風ながらセンスの良い造りである。各部屋毎に竹内まりやと山下達郎の歌詞を書家が揮毫した大型パネルが設置されている。私の部屋の歌詞。
心帰る場所はひとつ いつもの my sweet sweet home
大浴場で汗を流し生き返った。指定した時間(6時半)から楽しい夕食である。竹内まりやと山下達郎の音楽が静かに流れている。こんな雰囲気は他の旅館ではあり得ない。大きな額に入った作品は竹内まりやさんのお母様の作品という。まりや氏が故郷から委嘱を受け作った“愛するわが出雲“。
杵築の社に 神々集いて 縁結び栄える 神話の里よ
食事後、ロビー脇に設けられた「竹内まりや・山下達郎グッズ売り場」を拝見。和風の旅館なので控えめに設置されている。この時は物色だけに留めた。歩き疲れて健康睡眠。(続)

