定期的に悲劇に接すること
安田雅弘「魅せる自分の作り方」(講談社選書メチエ)に次の記述があります。
私たちは長い人類史のほんの一部分でしかない。現存する何十億という人類のたった1人に過ぎない。宇宙という深遠な大河では1滴にも満たない。時々こうした視点を持たないと人間は思い上がる。思い上がって紛争を起こし、環境を破壊する。そのために「悲劇」に触れることが必要なのだ。2500年前ギリシャ人はそう考えた。(略)驚いたことにその思い上がりを戒める必要があることを彼らは知っていた。そこで年1度悲劇を観るため市民が劇場に集まることを義務にした。デイオニューシア祭と呼ばれる演劇祭だ。出演者や経費は金持ちが順送りで負担したと言われている。市民は、ふだん怠けている自分たちの代わりに「人生」や「人間存在」や「人類の運命」について考え続けてくれる演劇人を大切にしたのだ。
「司法改革」以降、人間とは何か?正義とは何か?考える機会が激減しました。流行っているのは専門性の向上やマーケティング。皆が明るく熱くなっています。しかし弁護士が行う仕事の大半は紛争の地味な後始末。暗くて孤独な作業なのです。時々こういう視点を持たないと若手弁護士は勘違いするのではないか?思い上がりを戒めるため私は悲劇に触れるべく定期的に劇場へ向かうことを自分に課しています。怠けている自分の代わりに人生や人間存在について考えさせてくれる演劇人や映画人に接したい。それが司法をテーマにしたものである必要など全くありません。出来れば「死者の声」を感じられる少し暗い物語が良い。そんな物語に接することで宇宙という深遠な大河で1滴にも満たない存在である自分が感じられます。それは暗くて孤独な思索です。しかし「他者の不幸」に接する弁護士にとっては「暗さや孤独だって大事な要素ではないのか?」と私は思ったりします。