天才とバカ殿
久留米藩第7代藩主である有馬頼徸(1712~1783)は16歳で藩主になり70歳で亡くなるまでの54年間、久留米藩を治めました。頼徸は極端に異なる2つの顔を持つ特異な人物でした。以下、河村哲夫「海路・筑後人物伝」(海鳥社07年11月号)、「久留米市史第2巻」、「久留米藩宝暦一揆250年を考える」(浮羽郡郷土会実行委員会)、古賀幸雄「久留米藩史覚書」(久留米郷土研究会)等を基礎にしてご紹介します。
有馬頼徸は藩主(久留米城主)でありながら数学に関する天才的な才能を持っていました。(*写真は現在の久留米城址)
河村前褐書は数学における頼徸の代表的な功績として以下の3つをあげます(162頁)。
1 円周率の研究
円周率πを30桁まで計算しました。ランベルト(1728~1777)が計算したのは27桁まで。当時としては世界最先端の業績です。頼徸が提示した円周率は近似分数としての428224593349304/136308121570117というもの。現代の目から見ると、この近似分数は30桁まで正しいというのが正確な表現です(平山諦「和算史上の人々」筑摩書房69頁)。
2 循環小数の研究
無限循環を行う少数の最大のものは9510202489/2843460249201であるとし、このとき分数を何人かで分けて計算し、最後につなぎ合わせて答えを出す方法を考案しました。この理論はガウス(1777~1855)の発表より80年も前のことです。
3 久留島・有馬の定理
2からnまで何個の素数があるかという問題について解答を出しました。これはルジャンドル(1752~1833)の発表よりも30年も前のことです。
頼徸は明和6(1769)年に専門的な数学書全5巻を刊行し関流数学の秘伝である代数と円の研究を公開しました。当時、数学の重要な研究は秘伝として弟子に教えるのみであるのが通常であり、かかる技術の公開は画期的なことでした。頼徸は藩主という立場上支障があったのか、この書物を「豊田文景」というペンネームで刊行しました。頼徸が残した数学書は40を超えます。測量家伊能忠敬の遺品にも頼徸の数学書が含まれています。
かように数学の天才的な頭脳を持っていた頼徸でしたが、他方で彼は「バカ殿」という側面を持っていました。頼徸が藩主に就任する1728年以降、久留米は天候に恵まれませんでした。米の収穫は激減し藩の財政は極度に悪化しました。これを打開するため頼徸は人頭税(人別銀)の導入を柱とする重税策を打ち出したのです。頼徸は「民衆の反感をどう考えるか」という政治的感覚を持ち合わせていなかったのです。合理性の極みである数学的な頭脳を持っていたことが民衆意思の軽視に繋がったのかもしれません。冷徹な秀才の典型を見るような気がいたします。増税(人別銀の賦課決定)は宝暦4(1754)年2月22日になされました。ただでさえ窮乏化している上に増税の通知を受けた農民は憤慨のあまり3月20日に若宮八幡宮(現うきは市)に集結しました。
集結の力を背景に農民は3月から4月にかけ7通の願書を藩に提出します。農民の示威行動はエスカレートし、生葉郡・竹野郡・山本郡を中心とする地域の農民たちが筑後川の八幡河原(現田主丸町八幡大窪)に多数集結して気勢を上げました。その数は数万人に達したと言われます。
宝暦一揆は2段階に分けられます。前半は3月20日の農民集会から同月末の藩側回答により蜂起が一応収束するまでの時期(全藩的闘争段階)です。後半は4月4日から5月末頃まで各地域ごとに混乱を示した時期(地域分散的闘争段階)です(久留米市史第2巻367頁)。一揆に参加した農民の数は全藩で約10万人と言われます。地域内では打ち壊しが続発し、支配層に対する農民の不満が一気に爆発しました。これが宝暦一揆の特徴的な点です。
享保一揆では、農民側がある程度は統制された行動を示し、稲次因幡をはじめとする藩側の家老も抑制的に対応することにより平穏な解決が図られました(「薩摩街道と松崎宿」参照)。しかし激しい打ち壊しを伴った宝暦一揆に対する藩側の対応は厳しいものでした。穏健派の家老である有馬石見は農民の要求に対し一定の理解を示した書き付けを交付します。農民側から見れば有馬石見が享保一揆における稲次因幡にだぶって見えたことでしょう。しかし頼徸は農民に対して寛大な対応を示した有馬石見を処分し、5月下旬から(農民の運動が沈静化するのを待って)一揆を指導した有力な庄屋や農民を次々に逮捕させます。逮捕された庄屋や農民らは全体で300余名に達し、荘島の牢獄に拘置された後で処罰を受けた者が179名・そのうち37名は、二ッ橋の刑場で死罪になりました(「筑後における江戸時代の刑場」参照)。以下、宝暦4年8月27日に下された沙汰(判決)の一部を引用します(浮羽郡郷土会「久留米藩宝暦一揆250年を考える」実行委員会)。
竹野郡野中村庄屋・八郎右衛門:当春、発頭の村々、殊に寄合い相集まり候場所も居村に近く候えば、早速承り附くべき処、其の侭に罷り在り注進延引、慈に因り相募り御国中の騒ぎに相成り重々不届きに付き、死刑行われ候。
竹野郡石垣村百姓・藤四郎:此の者、当春騒動の節、八幡河原に於いて、数人の内の奉行中へ一人罷り出て、応答せしめ剰え相鎮まり候以後、村役人に非道の儀を申し掛け下作定等の儀をも頭取り、御大法に背き郡中を騒がし候、重科に依って刎首行われ候。
明和2(1765)年に家老・有馬内蔵助は(世継である有馬頼貴が病気になった際)高良大社に病気快癒の祈願を行いますが、その際に奉納した文書には以下の趣旨の記載がなされているそうです(河村前褐書163頁、古賀幸雄「久留米藩史覚書」123頁)。「頼貴殿が病気になられるとは万夫の罪か、はたまた藩主頼徸公に下された天罰か。そもそも現藩主の不仁は山のごとく重い。万夫の恨みは丘のごとく積もっている。それゆえ天が災いを下しても我々家来は何の抗弁も出来ない。しかしながら、これは藩主ひとりの問題である。天はひとりのために万夫に災いを及ぼすはずがない。」江戸時代に家老がここまで率直に藩主批判を表明するのは極めて異例のことです。
安永7(1778)年に久留米を旅した三浦梅園は当時の久留米の町をこう記しています(古賀前褐書43頁)。久留米の町が悪政によっていかに疲弊していたかがよく判ります。「久留米領内にいたって民家大破寥落悲しむべし。本郷の宿旅人腰かくべく家無し。城下の町甚だ敗壊す。」
有馬頼徸は、数学者としては「天才」でしたが、藩主としては「バカ殿」でした。政治家に求められる資質とは何なのか?を考える良い材料にしなければなりません。
* 有馬頼徸は若き君主時代に過酷な処断をしましたが、晩年に宗教的施策を打ち出しました。通外町に五穀神社を創建し五穀豊穣を祈願するとともに高良山の麓に高僧・古月禅師を招いて福聚寺を創建しています。さらに福聚寺を第1番として八女の霊厳寺を第33番とする、筑後33カ所観音霊場を制定して篤く保護しました。これらは若き頃に厳しく処断した一揆関係者への詫びと供養の意味が含まれていたようです(西原そめ子「筑後の寺めぐり」西日本新聞社13頁を参照)。
* 六条雅敦「画された十字架・江戸の数学者たち」(秀和システム)は面白い著作。所々に光る記述がある。江戸時代の知識人が高い数学的な知識を持っており、その多くが「転び」と呼ばれたフェレイラやキアラから最先端の科学を学んでいたという視点は「ありうる」という感想を抱く。彼らが「転向」したのは拷問を加えられたからではなくカトリックの不合理性を論理的に説かれたからだという論旨も「ありうる」と感じた。彼らは元はマラーノ(改宗ユダヤ人)だったとの説がある。ユダヤ教の立場から観ればキリスト教は身勝手な宗教である。マラーノであればそんな感覚を根底に有していてもおかしくない。日本でユダヤ的知性を覚醒させられたというのはアクロバテックな展開であるが面白い視点である。残念なのはこの本の中で久留米藩の数学が全く扱われていないこと。改訂版を出されるときがあれば補ってもらいたい。