山田堰と水車群
古来より筑後川中流両岸の村々は自然堤防(洪水の時に上流から運び込まれて堆積した土砂により自然に形成される微高地)上にありました。筑後川は荒れ川で知られ、自然堤防の規模も大きいものでした。このため両岸の村の人々にとって「川近けれども水遠し」という状態が長期間続き、村民の生活は貧しいものでした。農業用水を求めるには上流に堰を造り、用水路を通して水を導く他はありません。しかし、かかる大規模な土木工事を行うためには強い政治力・高度の技術力・多額の資金が必要でした。江戸時代にかかる土木工事が為されるようになった背景には江戸幕府による政治の安定と天候不良による凶作があります。筑後川右岸(北)にあたる朝倉地方の農地は筑後川の水面に対して高いところにあるので地区内を流れる小さい谷川を利用した小規模な稲作しか出来ませんでした。寛文3(1663)年の干ばつを契機に福岡藩による導水の必要性が叫ばれるようになり計画されたのが山田堰です。山田堰は福岡藩が筑後川から取水した唯一の堰です。工事開始から現在の姿に至るまでに127年もの年月を要しています。山田堰は現在も実働する「傾斜堰床式石張堰」として貴重なものです。江戸時代の大規模土木工事が今なお命を保っている希有の事例です。
現代に生きる我々の多くは、堰というと、大規模なコンクリート工事によって力づくで水流を堰き止める形態のものしか知りません。しかし、一昔前まで我が国の堰の多くは「ななめ堰」でした。これは川の中に土俵や巨岩を積み上げ、水流に対して斜めのラインを形成して水流を水門に導くものです。基本的なアイディアは①巨石を斜めに並べて川全体の水位を数メートル堰き上げ、②増水に対しては堰の中に数本の水抜きを作り、これを通して過度の水位上昇を防ぎ、③更なる大増水に対しては余水が石張りの上を越えていくようにするというものです。自然の力に逆らうのではなく、自然の力を上手に受け流す見事な構造です。スムーズに水流を導くため、ななめ堰は川の流れがやや曲がっている所に形成されます。山田堰の場合、上流から見て筑後川がゆるやかに左にカーブする場所にあります。ここから右側の切り抜き水門に向かって水流を導き取水するのです。ただ取水のしやすい場所は水害を受けやすい場所でもあります。山田堰も幾度となく大規模な水害を受けました。そのたびに修復工事を受け、江戸時代に基本設計された姿を今も留めているのです。
山田堰の建設は寛文3(1663)年に恵蘇神社前の右岸から筑後川を斜めに約半分ほど締め切る突堤の築造から始まります。水門は現在より少し下流側にあり、用水路(堀川)は幅4メートル、深さ1.2メートル、長さ約4キロメートル(現在の甘木市古江辺りまで)で構築されました。これが第1期工事です。元禄14(1701)年に取り入れ口の水門が木製から石製に改築され、耐久性の飛躍的な向上が図られました。これが第2期工事です。享保7(1722)年には水門の場所が現在地に変更され、岩盤をくりぬいて作った切り抜き水門となりました。この場所は筑後川の水流にも負けない固い岩盤でしたから、水門とするには最適でしたが、固い岩盤をのみで少しずつくり抜く作業は大変な難工事でした。工事をした先人の苦労が偲ばれます。これが第3期工事です。宝暦10(1760)年に水門が拡張され堀川が幅7メートルに拡張されました。これが第4期工事です。明和元(1764)年に用水路が延長され中村(甘木市)までの南幹線が完成しました。これが第5期工事です。最後に寛政2(1790)年、山田堰の大改修が行われ、堰幅170メートル、石張り面積7688坪という現在の姿が現れるようになりました。これが第6期工事です。使用された石材は23万立方メートル・動員された人員は延べ62万人と言われます。自然石を巧みに積み上げた「空石積み」です。工事を指揮した古賀百工は地域の神となり、水門上に築かれた水神社に顕彰碑が建てられています。「傾斜堰床式石張堰」の構造自体は江戸時代のままですが、昭和55(1980)年に起きた水害の修復工事の際に補強が加えられ、平成11年3月、石と石との間をセメントで固定する「練石積み」に変更されました。山田堰には(先端的な工作機械がなくとも)人力で大きな灌漑効果が発揮できるための高度の土木技術が駆使されています。
中村哲医師によるアフガニスタン復興計画として為された水路の建設において最も参考になったのはこの山田堰だそうです(中村哲「医者・用水路を拓く」石風社104頁以下)。山田堰のアイデアを生かした現地の用水路の様子が紹介されています。(ペシャワールの会HP)
山田堰によって取水された筑後川の水は堀川を通して流れていきます。ただ、筑後川右岸の自然堤防上の農地は堀川よりも高い位置にあるため、灌漑に用いることが出来ません。江戸時代には電力によるポンプの利用などありませんし人力で水をくみ上げるにも限界があります。そこで考案されたのが水の力で水を高い場所に導く水車群です。菱野の三連水車・三島の二連水車・久重の二連水車の合計7基の水車が稼動しています(稼動は6月中旬から10月中旬頃まで)。
水を供給する範囲は35ヘクタール。水車の数や微妙な取り付け角度(19度)に経験に基づく技が生かされています。老朽化が激しいので水車は5年ごとに取替えられます。
これらの水車群は夏の風物詩として朝倉観光の目玉となっています。もっとも、これらの素晴らしい水車群は、高度成長期には無用の長物として破壊されようとしたこともあったのです。先人の貴重な農業遺産を残そうという有志の方々(香月徳男さんら)の反対運動が功を奏して現在の美しい姿が維持されることになりました。先人の方々の努力に感謝。
山田堰と水車群は、自然の力と先人の智恵が調和した誇るべき美しい郷土の遺産です。その価値が評価され平成2(1990)年に国の史跡に指定されました。
* 朝倉市は2017年7月6日の集中豪雨で甚大な被害を被りました。三連水車にも被害が出ていると聞きます。現地情報を十分確認されてからお出かけください。