ポテトキング1
アメリカで「ポテトキング」と称された牛島謹爾について、この歴史散歩でも若干触れてきました。これから3回にわたり牛島謹爾その人についてご紹介します。今回は筑後を舞台とした若き日の牛島を、次2回はアメリカにおける牛島の活躍を見ることにしましょう。
牛島謹爾は元治元(1864)年、久留米市梅満町掛赤において、農業を営む牛島家の3男として出生しました。幼名を清吉といいます。生まれたときから非常に体格が良く(壮年時には身長173センチ・体重97キロ)鼻も高かったようです。これらの身体的特徴が、後にアメリカ社会において外国人に全く引けを取らない彼の成功の源になったものと思われます。
現在、出生地は掛赤公園として整備され、記念碑が建てられています。
清吉は8歳のときに近所で手習いを始め、明治8年(12歳のとき)原古賀の小学校に入学します(小学校はまだ明治5年に出来たばかりでした)。清吉は常に優秀な成績で将来は漢学者として立身する夢を抱いていました。清吉は15歳の時に漢学者樋口真幸が営む変則中学中州校に入学し更に勉学を続けました(「山ノ井堰と人柱」を参照)。 清吉はその頃、八女に江崎塾という私塾があり、漢学者江崎済が幾多の秀才を集めて熱心に教育をしているとの話を聞きました。久留米荘島に生まれた江崎は明治初年の久留米藩難事件を避けて(07年3月30日「遍照院」参照)矢部村桑取藪で私塾を開いていました。政治的変動期にはインテリが粛清に遭うことが多いからです。が、時勢が安定すると教育を求める地元の要請が強くなります。これに応えて江崎は黒木に塾を移転したのです。黒木塾の場所は元矢部線の旧黒木駅近くで、現在は観音堂になっています。塾はさらに上陽に移転し「北ぜい義塾」と呼ばれました。現在の北川内小学校のある場所がそれです。清吉はこの北ぜい義塾に入塾を志願し、江崎から入塾を許されます。この塾で清吉は優秀な同窓生に恵まれます。三越デパート創始者となる日比翁助・陸軍大将となる仁田原重行・黒木町町長となる隈本勝三郎・漢詩人宮崎繁吉などの俊英と、生涯にわたる友情を育むことになるのです。特に、常に海外に目を向けて慶應義塾卒業後に英国に旅立った日比翁助との交わりがなければ、清吉は地元の漢学者になっていたのかもしれません(「デパートの誕生」を参照)。その頃、北ぜい義塾には同じ「牛島清吉」という同姓同名の子がいたので、清吉は改名を決意し、江崎師に願い出て「謹爾」という名を付けてもらいました。戸籍上の手続きも行って正式に「牛島謹爾」となったのです。
北ぜい義塾での勉学が4年になる頃、謹爾は東京に赴き、漢学者・三島毅が運営していた二松学舎に入学します。この頃まで謹爾の目標はあくまで漢学にあったのです(謹爾の漢詩の能力は素晴らしいもので、ポテトキングと称されるようになった後、江崎に対してアメリカから素晴らしい漢詩を送っています・原本は黒木町の「学びの館」に残されています)。二松学舎入学の2年後、謹爾は東京高等商業学校(現一橋大学)を受験しますが英語力の不足により不合格となりました。謹爾にとって屈辱的だったのは、久留米の小学校時の後輩浅野陽吉(後に衆議院議員)が合格したにもかかわらず、自分は不合格となったことでした。一般に若き日の試練に対して人間は2つに別れるようです。1つは試練に耐えきれずにズルズルと駄目になってしまう者、もう1つは試練をバネとして更に飛躍できる者です。謹爾は典型的な後者の人間でした。英語力の不足を痛感した謹爾は、英語力の不足を克服するために、いきなりアメリカに行くことを企てるのです。現在でこそ気軽にアメリカに行く者も多数いますが、時は明治21年です。海外渡航の障害は甚だ高く、謹爾はまだ25歳でした。
謹爾は故郷の久留米に帰るため、新潟を経由し船で下関につきます。が、謹爾は全くの無一文だったため、門司から久留米まで二昼夜歩いて帰ってきました。そして両親に渡米の決意を述べます。もちろん、そのような無謀な試みを両親は簡単には許してくれません。そこで謹爾は旧師旧友を訪ね歩きます。最初はあまりにも無謀な試みに恩師江崎すら引き留めを計ろうとします。が、謹爾の決意は全く変わりません。そのため徐々に賛同者が増え、遂に両親も承諾するところとなりました。渡米できる喜びに満ちあふれ、親族と友人から出してもらった若干の旅費を抱いて、謹爾は再び東京に向かいます。そして明治21年12月8日、僅かの手荷物を持ち、横浜を出る汽船に便乗して、アメリカに向け日本を出国します。謹爾は3等船室でしたが、この船の1等船室に偶然一緒に乗っていたのが後の大審院長(現在で言えば最高裁判所長官)三好退蔵です。年齢も社会的地位も全く違いますが、両者は意気投合します。三好は後に「牛島という青年は実に面白い男だ。必ず成功するに違いない。」と人に語っていたそうです。謹爾は船の中で26歳の誕生日を迎えました。