歴史散歩 Vol.64

東京の石橋正二郎3

今回は美術に関する正二郎の足跡を辿ってみます。正二郎は荘島小学校時代、後に画壇の巨匠となる坂本繁二郎から絵の指導を受けています。坂本はフランス留学をへて大正13年に久留米に戻りますが、正二郎は坂本から次の願いを聞かされます。「青木繁は間違いなく天才である。彼は28歳で死んだが作品がこのまま散逸するのは忍びない。これを集めて青木繁のために美術館を設立して欲しい。」 青木と坂本は小学校の同級生であり親友でした。正二郎は坂本の言葉をきっかけに絵画の体系的収集を始めます。収集は昭和2年頃、和田英作・岡田三郎助の作品から始まります。正二郎は青木繁・坂本繁二郎の諸作品の他、藤島武二・黒田清輝・古賀春江・藤田嗣治・安井曾太郎など収集の幅を広げてゆきました。(財団法人石橋財団「石橋コレクション」より引用)

 昭和20年の敗戦後、正二郎は明治から昭和初期にかけ先覚者が欧米から買い集めて秘蔵していた海外の名作が連合国側の手で国外に持ち出されるのを憂い、積極的に収集を進めます。正二郎は特に印象派系統の作品に理解と愛好を深めていたため収集に全力を注ぎました。この頃は財閥解体などで金銭的に逼迫していた所蔵家が多かったので、正二郎は多数の作品を短期間に集めることが出来たのです。収集に当たっては団伊能(団琢磨の子・幹一郎の義父・東京大学助教授)を中心とする諮問グループを作っています。集めた作品は永坂の自宅内美術庫に保管されました。
 正二郎は昭和25年(グッドイヤーとの提携交渉を主目的とする)アメリカ視察の際、街中に存在する各地の有名美術館を歴訪しています。正二郎はそれらの施設が文化向上に大きな力をもっていることを痛感し「美術品は個人の所蔵庫に秘蔵されるのではなく一般公衆に公開されるべきである」との信念を強めます。その帰結として昭和27年、正二郎は石橋コレクションの常設展示場として、完成したブリヂストン本社ビルにブリヂストン美術館を開設しました。当時、洋画を集めた個人美術館は大原美術館(倉敷市)が全国で唯一でした。首都東京・その中心地京橋のブリヂストン本社ビルに開設されたブリヂストン美術館は大きな反響を呼びました。

 昭和29年、正二郎は財団法人設立に着手します。目的は2つ。1つはコレクションの散逸を防ぎ永久に保存して人々の鑑賞に資するというものです(個人は死んでも法人は死にませんから)。もう1つは地域社会への貢献や寄付助成を「個人の活動」から「法人の事業」へ発展させて恒久的なものとするものでした。正二郎の長男幹一郎氏は当時の状況を次のように語っています。

昭和29年頃、父より『財団を設立して美術館にある美術品をすべて財団に寄贈したいと思う』と下問された。これを私は、父が、財産の大きな部分を財団に寄付することになるので相続人たる私に意向を聞いたものと解釈した。私はふたつ返事で承諾し一刻も早く寄贈されることを希望した。『世の中のためには、これだけまとまったコレクションは永久に社会へ受け継がれ、かつ発展させねばならないので、私は心から賛成する』と述べた。

昭和31年、財団法人石橋財団の設立が政府から認可され正二郎は初代理事長に就任します。基本財産とされたのはブリヂストン株式1600万株(当時の額面で総額8億円)・絵画・彫刻など千数百点、京橋のブリヂストン本社敷地410坪・久留米市櫛原町の旧自宅1850坪と建物300坪・伊東市元東郷元帥別荘宅地400坪と建物60坪などです。これらは前例のない高額の基本財産であり、現在に至るまでブリヂストン美術館の運営を支え続けています。

財団設立をにらみながら正二郎は郷里久留米に美術館を含む総合文化センターを建設する構想を立てました。昭和31年はブリヂストンタイヤ設立25周年にあたり、この記念事業の一環として構想されたものです。場所は佐藤弥吉(足袋原料である綿糸布業者)の工場跡です(佐藤弥吉氏は現在の市立南筑高校創立者です・工場のレンガはペリカンプール周りに再利用されています)。正二郎は自分の手で文化センターの基本構想図面を書きました。かようにして総合文化センターの一環として久留米の石橋美術館は開設されました。(開設当初の石橋文化センター・右奥が石橋美術館)

 開設当初は正面向かって右にプールが・左に体育館が・左奥に円形劇場があったことが判ります(円形劇場は着工前)。当時は園内に樹木がほとんど無かったことも判ります。右脇に筒川が流れています。現在、東と南にある植物園も当時は未だ整備されていないようです。

平成24年、石橋美術館でブリヂストン美術館開館60周年を祝う特別展が開催されました。世界的名画を地元久留米で鑑賞できることは慶ばしいことです。(特別展のチラシ:ピカソ「腕を組んですわるサルタンバンク」)
 最後に東京国立近代美術館について触れます。
 昭和27年京橋に開設された東京国立近代美術館は古いビジネスビルでスペースも狭かったため昭和39年頃移転計画がたてられます。北の丸代官町の国有地が候補地として浮上しますが、ここは閣議で施設を建設しないと決議されていました。しかし日本と世界の近代美術を展示し海外からの来館者をも満足させられるのはここがベストというのが関係者の一致した意見でした。正二郎はこの事情を慎重に考慮し提案を行います。「もし代官町に建設が許されるならば私個人が近代美術館を新築して国に寄贈します」。正二郎のこの大胆な提案が政府の理解を得るところとなり代官町への建設が認められました。昭和44年、谷口吉郎氏の設計による東京国立近代美術館の建物が竣工しました。この建物を「個人として」建築し国に寄贈するなど常人のなし得る技ではありません。

 石橋正二郎は久留米市民から地元への貢献を認識されていますが東京でいかなる活動をしていたか認識されていません。他方、東京の財界関係者や芸術関係者には久留米における貢献が認識されていないように私は感じます。この歴史散歩が両者の架橋になれば幸いです。(終)

* 石橋美術館は1956(昭和31)年4月26日に開館し、その運営は石橋財団が行ってきましたが、2016年秋より久留米市が運営を引き継ぐことになりました。
これに伴い石橋美術館60年の活動を「石橋コレクション」で振り返る企画展「石橋美術館物語」が2016年7月2日から開催されます。多くの方に観ていただくことを念願しています。(企画展のチラシ・青木繁・わだつみのいろこの宮)
 開設当初の石橋美術館。設計は菊竹清訓(市民会館や市役所と一緒)。地面から建物全体を持ち上げたスタイルになっているのは、菊竹の実家が水天宮近くにあり、氾濫したときの川の怖さをよく知っていたからです。建築地がもとは筒川の氾濫原であり、遊水機能をもつ場所でしたから、菊竹は洪水になったとき高価な絵画が損傷を受けないように、このスタイルを選択したのです。
* 石橋文化センター開設当初の写真を見ると樹木が少なかったことがわかります。現在の豊かな森は数十年後を見据えた地道な植林の結果です(東京の明治神宮も・軽井沢の避暑地も・大正時代以前に樹木はほとんど無かった)。森は自然に生じるものではなく人間が意思的に形成した人口構築物です。現代に生きる我々は数十年後を見据えて「森」を形成しているであろうか?と反省させられます(2016/8/20学芸員森山秀子氏講演の感想です)。
* ブリヂストン本社ビルが建て替えられるに伴い、ブリヂストン美術館も「アーティゾン美術館」として生まれ変わりました。

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