三池港周辺4
平成9年の閉山後、三川坑は長く閉鎖状態が続いていました。炭鉱鉄道の撤去や有明海沿岸道路の建設に伴い西側施設の多くは撤去されています。しかし東側の主要施設が相当の規模で残されています。これは三川鉱の歴史の生証人として貴重な遺構です。これらの施設は平成26年3月に三井から大牟田市に対し寄付という形で譲渡され、大牟田市役所が主導する形で一般公開が継続されてきました。この流れの中で私は今回の見学会に参加することが出来たのです。「三池港周辺」歴史散歩の最後として平成27年2月21日見学会の様子を御紹介して締めくくりとすることにしましょう。
私は数年前(整備が進んでいる)万田坑と宮原坑を見学したことがあります。が、三川坑は名前を知っているだけで場所を知りませんでした。当時は大牟田の石炭産業遺産を紹介する地図にも三川坑の場所が明記されていなかったからです。今回、見学会への参加を申し込むために大牟田市役所に電話した際の会話。「三川坑はどこにあるのですか?」「港倶楽部をご存じですか?」「はい知ってます」「あそこの近くです・行ってみたら判ります」。この会話を受け私は港倶楽部で食事をすることにしたのです。港倶楽部での会話。「あの、三川坑見学会に来たのですが、三川坑はどこにあるのでしょうか?」「この建物の前です」。なんと、港倶楽部正面の工場のような建物が三川坑だったのです。それでは現存する三川坑を見ていくことにしましょう。最初に既に撤去された施設を含めて三川坑施設全体の配置をご覧頂きます(下図の赤枠が残存施設)。
正門は三池争議のときに入構しようとする新労(第2組合)、これを阻止する三池労組、双方組合員が激しく衝突した場所です。門柱には今も「三井石炭鉱業株式会社三池鉱業所」のプレートが掛かっています。門上に看板をかけるスペースがあります。争議中と争議後の異なる掲示が印象的でした。正門を入って通路を真っ直ぐ歩きます。三川坑側から見ると旧三井港倶楽部の建物は直ぐ真横。このアングルで旧三井港倶楽部の建物を観ることは通常あり得ないので感慨がありました。右手に事務所と調査課の建物があります。正面に日本庭園(戦後の昭和天皇視察を記念して創られた)の痕跡があります。
庭園の向こう側に「第2斜坑」入昇坑口があります。繰込場(後述)で点呼と指示を受けた労働者は入昇坑口から坑口に入っていました。内側に地下通路があり、第2斜坑口の人車乗り場の側面に通じています。第2斜坑は平成9年の閉山に伴い入口がコンクリートで塞がれています。ここから11度50分の傾斜で長さ2012mの斜坑が有明海の地下350mまで続き、その先は複雑に入り組んだ坑道が広がっていました。現在、坑道は水没しています。坑道は常に排水をしないと水が溢れて維持できなくなる施設なのです。
第二斜坑の外に斜路と軌道が続き、その延長上に第二斜坑巻上機室があります。軌道が複雑に分岐しています。点検場の傍らには錆だらけの人車が数両置かれています。この人車が巻上機のケーブルにより斜坑の坑口と底部を往復していました。
三川坑のほぼ中央に山ノ神の神社が設けられています。坑内は危険な現場なので、鉱員たちは炭鉱の守り神である山ノ神(大山祇神)を篤く信仰していました。神社の東にコンプレッサー室があります。削岩機の動力源となるコンプレッサー(空気圧縮機)が置かれていた建物です。
傾斜が大きい斜坑で人車を動かすにはワイヤーケーブルと巻上機が必要です。炭塵爆発事故を起こした「第1斜坑」は既に解体済みですが巻上機建屋が現存しています。往時を偲ばせる巻上機が良い状態で保存されています。
現在、三川坑敷地を分断する状態で有明海湾岸道路がもうけられているので、当時の施設は消滅しています。分断された西側は更地が広がっているだけです。三池争議の象徴といわれたホッパーは道路敷地となっており面影は何もありません。
「第2斜坑」巻上機室を見学します。この機械の状態も良好でスイッチを入れれば動き出しそうな気配があります。内部には作業指示を残す黒板等が残されています。
最後に繰込場と職員浴場を見学します。繰込場は鉱員が入坑前に準備をしたり作業指示を受けたりしていた建物です。大型の木造建築で、大きさを支えるため側面に巨大なバットレス(控え壁)が付いています。建築学的にも貴重です。
炭坑内に入ると坑夫は真っ黒に汚れるため炭坑には必ず浴場があります。三川坑は規模が大きいので坑夫用浴場は巨大なものでした。最初に上げた図をご参照下さい。正門を入って左側に坑夫用の巨大な脱衣場と浴場が設けられていました。この坑夫用の大浴場は既に取り壊されており、現存しません。現存しているのは一般職員用の浴場です。
職員用の浴場ですが、かつて存在した坑夫用の巨大な浴場をイメージさせて私の涙腺を刺激します。地下350メートルという地下採掘現場で真っ黒になり・汗まみれになって・地上に戻ってきた坑夫たちにとって、入浴は極楽のようなものであったことでしょう。
こうして私たちは見学を終え正門を出ました。かつて正門前に存在した三池労組の建物は撤去され現在は駐車場になっています。ここに停めていた車に乗り、案内をしてくれた大牟田市の職員さん達に見送られて、私は三川坑を後にしました。
三池炭坑から石炭が枯渇してしまったわけではありません。有明海の海底には膨大な量の石炭が眠っています。これらは経済的政治的理由により放棄させられたのです。放棄された三池炭坑が蘇ることはあり得ません。坑道はほぼ完全に水没しているからです。第二斜坑の一部を公開することも検討されているようですが、保安には相当の配慮が必要でしょう。建築物の保存に関しても動きがあります。建物を取り壊し再建する案が出ているようです。こういった動きに対し「大牟田荒尾炭坑のまちファンクラブ」(三池港周辺2を参照)は三川坑の保存に関する具体的提言をまとめています(ファンクラブ通信第30号)。その中で「古くなった建物を取り壊して似た姿に再建する」プランが批判されています。「答申で述べられた建物は、昭和15年から現在まで生き続けた、三川坑の歴史そのものである。それを取り壊して似たように再建された建物は原寸大の模型に過ぎない」(松岡高広有明工業高専教授)。正論です。「原寸大の模型」に歴史的意義はありません。
三川坑は三井港倶楽部の敷地をぎりぎりまで削って開坑されました。三池港の至近という地の利を生かし三池炭坑の生産拠点となりました。俘虜を含む外国人労働者の就労現場となり・昭和天皇が視察し・戦後最大の争議の舞台となり・戦後最大の労災事故の現場となりました。三川坑は観光客が来場する「世界遺産」から除外されています。あまり手を加えることなく静かに過去の歴史に思いを馳せる・そんな場所にしてほしい。私はそう願っています。