ちょっと寄り道(両国)
2024年4月、修習46期同期会のために東京へ出向きました。せっかくの上京なので以前から興味を持っていた両国・神田・田端の歴史散歩を加えてみました。1日目は両国界隈を散歩します。
(参考文献:生田誠「墨田区江東区歴史散歩」彩流社、司馬遼太郎「街道をゆく36」朝日文庫、籠谷典子「東京1000歩ウォーキング№22(墨田区両国亀戸)」明治書院、小野田滋「東京鉄道遺産」講談社ブルーバックス、「改訂版江戸東京歴史の散歩道1」街と暮らし社、「東京都の歴史散歩上」山川出版社、内藤昌「日本人はどのように建造物をつくってきたか・江戸の町(下)巨大都市の発展」草思社、平嶋彰彦「昭和二十年東京地図」(筑摩書房)など)
福岡発のA350は定刻通り9時55分羽田空港に着陸した。モノレールに乗り浜松町で山手線に乗り換え、秋葉原で総武線に乗り換える。学生時代(もう40年くらい前になる)総武線沿線に住む従姉妹がいたため私は良く総武線に乗った。なのでこのルートには馴染みがあるのだ。列車は浅草橋駅を過ぎるとアーチ鉄橋で隅田川を超え両国駅に停車する。このアーチ橋については後で触れることになる。いつもは通り過ぎるだけだった両国駅であるが、今回はちょっと違う。下調べをして多少目を磨いている。最後尾車両から両国駅の秀麗なターミナル型駅舎を眺めた。その素晴らしさが学生時代は全く目に入っていなかったことを悔やみながら乗り続け錦糸町駅にて列車を降りた。
錦糸町駅は当初「本所」駅と称した。市川・佐倉間で開業した総武鉄道が都心に向けて延伸した明治27年(1894)に開業した。「錦糸町」に改称されたのは大正4年(1915)のことだ。
本所と深川は本来「下総」国。「武蔵」国に属する江戸とは隅田川を隔てた別の国だった。この「別の国」であった本所と深川が「大江戸」市域に入るのは寛文元年(1661)両国橋が架けられてからのこと。武蔵と下総、2つの国を結ぶ橋であることから「両国橋」という橋名が先につけられ、両国橋の下総側地域が「両国」という呼び方をされるようになったのだ(後に正式地名となる)。文政元年(1818)8月、老中・阿部正精は幕府公式見解として江戸の行政範囲を確定した(山手線内側に江東区と墨田区の一部を加えた地域が該当)。東は中川(亀戸・平井周辺)までが御府内とされた。江戸時代末期には本所と深川が「江戸の重要な一部」になっていたことを物語る。
一般に湿地帯で人間が住めるようにする方法は限られている。古代中国にて考案されたのは多数の堀を開削し、掘った土を盛り上げて、土地にメリハリを付けることだ。後に日本に伝搬された。奈良時代「筑後」の湿地帯に縦横無尽に広がるクリークを築くことを指導し繁栄の基礎を形成した官吏がいる。713年に筑後国司として都から赴任した道君首名(みちのきみおびとな:663~718)。わが国初の法典「大宝律令」の編さんに携わった後、筑後と肥後の国司として派遣され、民から敬愛された学者肌の良吏だ。筑後に古くから伝わる湿地開発方法は(秀吉による)大阪西部開発でも展開された。大阪を「八百八橋」と称するのは多数の堀の開削により橋が多く架けられたことの象徴である。江戸幕府による本所深川の開発はこれらに匹敵するものである。多数の堀が縦横に掘られ碁盤目状の地割がなされた(城から見て縦が「縦川」横が「横川」)。本所深川の「地割のありかた」が江戸の中央部と異なるのは上述のとおり町の形成のされ方が根本的に異なることにもとづく。
錦糸町駅を降りると左手は「江東楽天地」の跡である(ちなみに現在も後進の立派な施設が建てられている)。1937年(昭和12年)2月27日、東宝(阪急)創始者の小林一三によって株式会社江東楽天地が創設された。かつて本所区錦糸堀には平岡工場を前身とする汽車製造合資会社東京支店(現在の川崎重工業株式会社)があった。1931年(昭和6年)に汽車製造が小名木川駅近辺へ移転すると、その跡地が8000坪の空地となっていた。小林はここに目を付け総合レジャー施設として江東楽天地を建設した。1937年(昭和12年)4月に着工し、12月3日に中核施設である江東劇場と本所映画館が開館した。いずれも定員1500人の大劇場であった。1938年(昭和13年)4月3日には遊園地・江東花月劇場(吉本興業に賃貸)大食堂(須田町食堂に賃貸)仲見世・高等屋台店・スポーツランド・喫茶店などを構成要素とする大アミューズメント施設となった。日比谷に進出した東京宝塚が東京中心部のハイソ・インテリ層をターゲットに上品な娯楽を提供したのに対して、江東楽天地は主に本所深川の地元民や千葉方面からの客をターゲットに庶民的娯楽の提供を狙いにしたものであった。小林一三の凄さに脱帽せざるを得ない(興味がある方は「阪急1・2・3」を参照されたし)。
京葉道路を西に歩いていくと道沿いに都立両国高校がある。旧東京府立三中。ここは芥川龍之介や堀辰雄の母校として著名である。近時は「著作権の権威」O先生の母校でもある(うちの業界の話:私は同期・同クラス)。校内に芥川「大川の水」の一部が文学碑として残されている。
もし自分に「東京」のにほひを問う人があるならば、自分は大川の水のにほひと答えるのに何の躊躇もしないであらう。独、にほいのみではない。大川の水の色、大川の水のひびきは我愛する「東京」の色であり声でなければならない。自分は大川あるがゆえに「東京」を愛し「東京」あるがゆえに生活を愛するのである。
歩いていくと大横川を超える。平橋から木場まで流れる隅田川の分流のひとつである。この川は万治2(1659)本所奉行によって開かれた。江戸城に対し横向きである(南北方向)であることから横川と命名されたものだが、特に大規模であったので「大横川」とされたのである。大横川は本所業平橋から真南へ須崎弁天まで下って、そこで湯掘川と合流している。これが江戸の東外縁と認識された。現在、大横川は埋め立てのために水を抜かれて水無川になっている(京葉道路沿いの一角だけ親水公園として残されている)。駅北の大横川からロッテ会館辺りまで食い込んでいた堀を錦糸掘という。昔は「おいてけ掘」と言った(本所七不思議の1つ)。その南(北辻橋)周辺は夜鷹(私娼)の巣窟だった。誰の所有か判らない境界であり「無縁の公界領域」であった(西井172頁)。
京葉道路一本南の路地を少し歩くと「勝海舟出生地」。勝に関する歴史評価は様々であり観る人によって180度も違う。不肖の私も年齢の変化で感じ方が大いに変わってきた。幕末に彼が行ったのは「政治」そのものである。政治の見方が少年・青年・中年・高年で大幅に違ってくる以上、政治観の変遷に照らして勝の歴史的評価が異なるのは当然と言えよう。おそらく「過剰に持ち上げる」のではなく「過剰に貶める」のでもなく、当時の政治状況の中を懸命に(でも飄々と)生きた稀有な人物としてクールに受け止めるのが良いのでは?と現在の私は感じている。近くの両国小学校(旧江東尋常小学校)には芥川龍之介の記念碑(「杜子春」の1節を刻む)が設置されている。
目的地の1つ「本所松坂町公園」に着いた。ここは「忠臣蔵」で著名な吉良邸の跡である。誤解されることが非常に多いようであるが、もともと吉良邸はこの地にあったのではない。高家たる吉良は江戸城の近くに屋敷を構えていたのだが、刃傷事件後、幕府によって半ば強制的に本所へ移転させられたのだ。「城に近い江戸中心部で問題を起こされては困る」という幕府首脳の思惑が背景にあったものと推測されている。私はさっそく「歴史散歩(久留米おきあげと忠臣蔵)」で使用する写真を撮影した。ちなみに司馬遼太郎によると「松坂町」なる地名は事件後に付いたものという(それゆえ事件当時の描写として「松坂町」という名称を使うのは間違いということになる)。
直ぐ近くに回向院がある。最初は南側の壁に則して歩き、江戸時代は正面が設けられていた西口付近を確認する。直ぐ前に隅田川がある。川沿いの路地に「両国橋広小路址」の碑が設置されている。現在架かっている橋(昭和7年竣工)よりも少し南側にある。小公園になっている。江戸時代に思いをはせて、しばし休憩する。史実としても赤穂浪士は(両国橋を渡ったのではなく)この地で休憩をしただけである。物語の構成上、絵になるのは何といっても両国橋であるから「仮名手本忠臣蔵」にて引き上げの四十七士は両国橋を渡って意気揚々と泉岳寺へ向かったことになっている。この辺りは火除け地とされ「広小路」を形成していた。ヨーロッパ的に言えば「都市広場」として役割を果たしていたのである。江戸中期以降、周辺は「無縁のアジール」という色彩を濃厚に有した江戸最大の盛り場だった。夏の川開きに行われる花火大会は著名であった。近隣のビル内に花火資料館がある。足を運び管理人さんと雑談する。筑後川花火大会を御存じであった。広小路は見世物小屋が立ち並び私娼窟が軒を連ねた。江戸城から見ると、広小路は隅田川向こうに出現した(夜鷹や貧民の巣窟が背景に存在する)「大カーニバル空間」だったのだ。この広場は明治37年の両国橋付け替え(鉄製トラス橋への変更)の際に消滅した。「広小路は滅び江戸は遠いものになった」(司馬128頁)。
現在の京葉道路に出る。関東大震災の後、後藤新平の復興計画の中で東京の横軸線「大正通り」(戦後は「靖国通り」という)が開通した。新宿から両国橋まで約8キロメートル。両国橋が大正時代「東京中心部の東端」と認識されていたことが判る。この道路を私は大学生のときに自転車で通ったことがある。部活の合宿が千葉県の太平洋側であり(大網白里町)サイクリングを兼ねて自転車で赴いたのである。懐かしい。回向院の入口は現在この道路側に設けられている。回向院は「明暦の大火」による被災者(10万人を超える)の霊を弔うため設けられた。江戸時代初期は軍事的理由から隅田川に橋が架けられていなかったため逃げ場を失った多くの人がこの地で亡くなった。両国橋を架橋するとともに無縁仏を弔うために「諸宗山無縁寺」として建立されたのが回向院である。後に地震・噴火・変死等の霊も合祀。関東大震災被災者の霊も祀られている(小塚原の回向院は本所回向院の別院)。相撲興行は富岡八幡宮で行われたのが最初らしいが回向院が「被災者救済」の趣旨を全面的に引き受けたので事後の興行は回向院が独占的に行うようになったそうだ。それが現在の大相撲興行に繋がる。現在も日本相撲協会から被災者に対して義援金が送られているのかな?
回向院入口左側に「国技館址碑」がある。現在は住友不動産ビルなどになっており劇場シアターχも入っている。この地はもともと回向院の敷地であり、明治42(1909)年ここに旧両国国技館が建てられたのである。ドーム型の屋根を持つ特徴的な構造の建物は辰野金吾・葛西萬司の設計によるものであった。この建物が大正6(1917)焼失したため、3年後再建されるも、関東大震災・東京大空襲などの被害に遭ってきた。戦後は米軍に接収され、両国メモリアルホール・国際スタジアム・日大講堂など用途を変えつつも両国のシンボルとして存在感を発揮してきたのだ。
京葉道路を渡って直ぐにある飲食店の前に「芥川龍之介生育地」の碑がある。芥川龍之介は京橋区入船町8丁目(現在の中央区明石町)にて新原敏三とフクの長男として生まれた(「銀座京橋」を参照)。生後7か月ごろに母フクが精神に異常をきたしたため龍之介は本所区小泉町(両国)にある母の実家である芥川家に預けられた。それがこの地だ。龍之介11歳のとき母フクが亡くなる。翌年、伯父・芥川道章(フクの実兄)の養子となり芥川姓を名乗ることになった。芥川家は代々徳川家に仕えた奥坊主(御用部屋坊主)の家系であった。養父道章は芸術演芸を愛好し江戸の文人的趣味を解した。龍之介は幼い時から極めて優秀で特に漢籍と英語に通じていた。両国小学校を出て前述した府立第三中学校に進む。卒業時は「多年成績優等者」の表彰を受けた。芥川の「彼岸と比岸を行き来する小説世界」は本所両国で形成された(@西井174頁)。この店で軽い昼食をとる。
隅田川沿いの道を5分ほど歩いて両国駅に到着。ターミナル駅の面影を残すのが西口だ。昭和4年に完成した震災復興建築の1つである。両国駅はもと明治37年4月5日に総武鉄道「両国橋」駅として開業した。千葉方面から伸びてきた総武鉄道(当時は私鉄)は本所(現在の錦糸町駅)から両国橋(現在の両国駅)へ延伸してきた。線路は未だ隅田川を超えて都心と繋がっていなかった。本所駅と両国橋駅の間(約1・5キロメートル)は「日本で最初の高架鉄道」として鉄道史に名を刻む(この高架は現存しない)。総武鉄道の国有化後も両国駅は行き止まりのターミナル駅であった。昭和4年に現在の駅舎が完成した。今も行き止まりのホームが残されていて現在のホームから眺めることが出来る。両国駅が「通過駅」となったのは昭和7年に御茶ノ水までの路線が完成したときだ。総武線「隅田川橋梁」が竣工したことによる。設計者は日本の橋梁設計の父:田中豊博士である(建築学的に意義のある建築に贈られる「田中賞」に名を残す)。隅田川の岸に立って橋梁をしばし眺める。この秀麗なる隅田川橋梁こそが昭和7年から現在までずっと総武線の大量輸送を支えてきたのだ。
両国駅北の正面に巨大な両国国技館が鎮座する。昭和59(1984)年に完成した「相撲の聖地」である。それ以前は隅田川対岸の蔵前に国技館があった(跡地に東京都下水道局処理施設と「蔵前水の館」が建つ:地下30mの水道施設が見学可能)。年6場所開催される大相撲の内、1・5・9月の3場所が両国国技館で開催されている。館内には相撲博物館が設けられている。
右手に鎮座するのが江戸東京博物館。菊竹清則氏の設計。久留米出身の菊竹さんには恐縮だが、無理やりに地面から持ち上げる設計思想が私は嫌いだ。高床式倉庫のように建物全体を地面から持ち上げる感じは久留米の旧石橋美術館や徳雲寺納骨堂などに繋がるものだ。が(小型の建築であればともかく)このような大型建築物で強要するのは「自然の摂理」に反している感じがして好きではない。改修工事中ゆえパス。以前拝見したことがある(精巧な両国橋の模型が記憶に残る)。
道を挟んだ先に葛飾北斎の生誕地がある。彼は宝暦10年(1760)この地で生まれ、本所近辺で93回も引越しした。高齢になっても健康で、88歳のとき下駄ばきで日本橋から両国まで往復していた。死期が迫った90歳のとき病床の中で「あと10年生きることが出来たらホンモノの絵師になれるのだが」と述懐したそうだ。凄すぎ。「画狂老人」と称した北斎を私は心から尊敬している。特に「富岳三十六景」は世界史に残る名作。北斎ファンの私は「久留米版徒然草」の700回記念号にて葛飾北斎オマージュ『久留米御来光三十六景』を発表したいと思っている(乞う御期待!)。
北へ歩き都立横網町公園へ(「よこづな」ではなく「よこあみ」と読む)。大正11年(1922)東京市は「陸軍被服廠(ひふくしょう)」移転に伴い、跡地を買収し公園造成を進めた。その最中に発生したのが大正12年(1923)9月1日の関東大震災だ。空き地状態だった被服廠跡に周辺の大勢の人たちが(家から家財道具を持ち出して)続々と避難した。昼時であり台風余波で強風が吹いていた。各所で火災が発生し、持ち込まれた家財道具に火の粉が燃え移った。激しい炎は巨大な火災旋風を巻き起こし一気に人々を飲み込む。結果、約3万8千人の命が失われた。この霊を弔慰するため四十九日に相当する大正12年10月19日、東京府市合同の大追悼式が挙行された。大正13年9月1日、東京府市合同で震災殃死者一周年祭並びに法要が行われ、以来絶えることなく今日まで慰霊が続けられている。当初「大正震災記念公園」と称されたが昭和5年(1930)に慰霊堂(当時は震災記念堂)や鐘楼・日本庭園が完成し、9月1日「横網町公園」として開園した。設計担当した伊東忠太博士は鉄筋コンクリート構造を採用しつつ日本の宗教的様式を現す建築とした。外観は神社仏閣様式であるものの納骨室のある三重塔は中国やインド風の様式を取り入れている。平面的にはキリスト教会で見られるバシリカ様式(内部に列柱を設け空間を分ける)が見られ内部の壁や天井にはアラベスク的紋様(イスラム風)も採用されている。翌年「復興記念館」(伊東忠太設計)も完成し現在の横網町公園のかたちが出来上がった。その後、第2次大戦の東京空襲で亡くなった方々の遺骨も慰霊塔に納められ、昭和26年(1951)名称が「東京都慰霊堂」と改められた。平成11年(1999)に東京都の歴史的建造物に選定されている。平成25年(2013)11月から平成28年(2016)3月にかけて耐震補強並びに外壁等の美装化、銅葺き屋根の全面葺き替えなどリニューアル工事を行われた。私がここを訪れるのは初めてのことであった。館内に「死者の声」が響き渡るのを感じた。合掌。
隅田川に向かって歩くと同愛記念病院がある。同院ウェブサイトによると設立経緯は以下のとおりである。大正12年9月1日、関東大震災に際し当時のウッズ駐日米国大使は惨禍の詳細を本国政府に報告するとともに迅速な救援を上申した。クーリッジ大統領は直ちに米国赤十字社を日本救援事務所本部に指定し「あらゆる力を傾注して迅速に援助の途を講ずべき」旨の教書を発した。これにもとづき米国赤十字社が中心となって救援金品の募集に着手し、あらゆる機会を利用して米国全国民に日本救援を呼びかけ大衆もこれに呼応して熱烈な同情をわき起こした。その結果、義捐金の総額は多額に上った。日本政府は、このような米国民の深厚な同情と友愛とを永久に記念し、被災民及び一般貧困者の救援のため、駐日米国大使の同意を得て「義捐金の一部約700万円(当時)」を割いて震災中心地域に救療事業を行う病院を設立することに決定。大正13年4月28日、内務大臣の許可を得て財団法人同愛記念病院財団(旧財団)が設立された。病院の位置は基本方針にもとづき(震災の時に死者3万人以上を出し最も悲惨を極めた)陸軍被服廠に近接する現在地(旧安田邸跡)に決定された。すみやかに同愛記念病院建設に着手し、その完成をまって昭和4年6月15日診療を開始した。
昭和17年6月25日、日本医療団が結核対策及び無医村対策を柱に、医療の普及を図る目的で創設された。旧財団は日本医療団をして戦時国民医療遂行の基幹たらしめることとする日本政府の政策に即応して、昭和20年3月31日に厚生大臣の許可を得て解散し、4月1日、日本医療団に合併した。「日本医療団中央病院」として戦災者の医療救護にあたった。敗戦後の昭和20年10月20日、病院の建物及び動産の一切が占領軍に接収されたので本院における医療は休止することとなったが、辛うじて両国橋近くの仮設小病院(旧佐々木病院)に移り、細々ながら博愛精神の灯を消すことなく救援事業に最善の努力を尽くした。この状態は昭和30年10月17日の接収解除の日まで続いた。
日本医療団は終戦後に解散することとなったが、旧財団に属していた病院の土地・建物・有価証券・預金等の資産は終始これを別箇のものとして保有していた。旧財団設立の趣旨を達成する方途として昭和27年10月、厚生大臣の許可を得て旧財団と同種の目的をもつ公益法人を設立し、同法人の資産として旧財団に関係する資産を一括寄附することとされた。その結果、接収解除も近い見通しとなった昭和30年2月24日、厚生大臣の許可を得て「社会福祉法人同愛記念病院財団」が設立された。昭和30年10月17日の接収解除により直ちに建物及び医療器具の整備改修、職員の充実に着手し、昭和31年4月16日に診療が再開された。この病院には戦前から戦後にかけての日本とアメリカの愛憎劇が表象されている。思えば牛嶋謹爾もサンフランシスコ大地震後にポテトを無償提供する人道的支援を行っていた(ポテトキング3を参照されたし)。こういう善意の人々の存在にもっと注目が集まっていれば両国が戦争に至ることも無かったのではないか?と私は夢想する。
今回の散歩の目玉は「隅田川リバークルーズ」(400円)。隅田川はもと「荒川」。「荒川」は「よく氾濫する川」という意味だ。1924年、氾濫を防ぐために時間と費用をかけて人工的な流路(放水路)が千葉側よりに作られた。1965年河川法制定により荒川「放水路」が荒川「本流」と定められた。他方(荒川と呼ばれていた)「旧河道」の名称が正式に「隅田川」となったのだ(もともと隅田川とは白鬚橋辺りから下流に至るまでの旧荒川の俗称だった)。
隅田川といえば「花」。滝廉太郎の作曲による名曲として名高い。明治33年11月1日に刊行された瀧廉太郎の歌曲集『四季』の第1曲。滝は実父の故郷である大分県で病気療養していたが明治36年6月29日に大分市稲荷町339番地(現:大分市府内町)の自宅にて死去。享年23歳。若すぎる死(涙)。作詞者武島羽衣は国文学者で歌人である。「春のうららの隅田川のぼりくだりの船人が櫂のしづくも花と散るながめを何にたとうべき」の歌詞は源氏物語「胡蝶」巻で詠まれた和歌「春の日のうららにさして行く船は棹のしづくも花ぞちりける」に依ると解説される(Wikipedia)。武島羽衣は日本女子大学の名誉教授にして宮内省御歌所寄人も務めた方。源氏物語を下敷きにして歌詞をつくる教養があったんですね。昔の人は凄い。歌詞に出てくる「船人」とは何か?漁船に乗る漁師ではない。ボートを漕ぐ者のことだ。一橋大学の愛唱歌に「東都の流れ千年の隅田を守れ一橋」とある。「橋人皆漕」なる伝統下に入学後(1982)行われた「戸田のボート体験」は忘れられない。
隅田川に架かる橋のデザインは全て異なる。多様なデザインとして美観を向上させるとともに橋梁技術の進歩を図る田中豊博士の意向である。隅田川に架かる橋は「近代橋梁技術の博物館」なのだ。そんな「橋を眺めながら隅田川を船で移動する」という心が躍る体験が400円とは安すぎる。両国を15時10分に出た船は15時25分に浅草二天門の船着き場に到着した。
目の前にかかるのは言問橋。在原業平が主人公とされる「伊勢物語」の次の歌で名高い。
名にし負わば いざ言問はむ みやこどり わが思う人は ありやなしやと
都鳥は現在の「ゆりかもめ」。ちなみに東京スカイツリー駅の旧名は「業平橋駅」であった。
船着き場から少し歩くと東武浅草駅がある。以前は妙な金属質のカバーがかけられて近未来感を出していたが全く合っていなかった。東武も反省されたのか当初の建築デザインが復活している。誰がどうみたってこっちのほうが絶対に良い。そのまま浅草寺に行こうとしたが「雷門」前の外国人があまりに多くて引き返す。「オーバーツーリズム」というのがどういう状態であるか良く判った。ちなみに浅草寺の雷門は1865年に火災により焼失したのだが、松下幸之助が1960年に再建したものである。大提灯は同時に奉納され、約10年ごとに1度、浅草寺から依頼を受け修復が行われている。道を戻り地下に降りて銀座線(日本最古の地下鉄)に乗り込む。映画「パーフェクトデイズ」に出ていた飲み屋を探したけど判らなかった。しばし地下旅の後、地下鉄神田駅で地上に出た。
若干歩いて「学士会館」へ向かう。ここは「東京大学発祥の地」とされる。当地で明治10年に創設された「大学」は明治19年3月に「帝国大学」と改称された。9年間大学総理であった加藤弘之退任を祝う謝恩会が開催された。これが「学士会」の始まりである。後に旧帝国大学(国立七大学:北海道大・東北大・東京大・名古屋大・京都大・大阪大・九州大)出身者の親睦を目的とした組織に発展した。学士会は大正2年1月に会館を創建するも同年2月大火で焼失。復興に向け準備を進めた矢先、大正12年9月1日、関東大震災に襲われる。復興の中で昭和3年に建設されたのが現在の学士会館である。設計は佐野利器と高橋貞太郎。重厚なスクラッチタイル・角を生かしたファザード・上階になるほど小さくなる窓枠・玄関ホールのアーチは見事。「二二六事件」の際は第14師団東京警備隊司令部が置かれた。太平洋戦争が勃発すると会館屋上に高射機関銃陣地が設けられ館内のいくつかの部屋を軍に提供。昭和20年に空襲被害を受けた。終戦後の9月、連合国軍総司令部(GHQ)に接収され米軍高級将校の宿舎や将校倶楽部として使用された。昭和31年7月にやっと返還され元のように旧帝国大学の親睦に使われた。現在は一般人にも門戸が開かれており会員以外も宿泊できる。
対面にあるのが如水会館。かつて「東京商科大学」が存在したところである。明治8年に帰国した森有礼が渋沢栄一と福澤諭吉の協力を得て銀座尾張町に創設した商業学校「商法講習所」が起源である(ちょっと寄り道「銀座京橋」を参照されたし)。後にこの地にて東京商科大学になる。関東大震災で壊滅したため商大は堤康次郎率いる箱根土地株式会社と土地を交換し国立に移転した。戦後「一橋大学」と改称され現在に至っている(ちょっと寄り道「国立」参照)。
夕食は学士会館内の中華料理店で超軽く済ませた。1日目から食べ過ぎて胃もたれの状態になるのは宜しくないからだ。部屋に戻ってシャワーを浴び早めに健康睡眠。(続)