久留米おきあげと忠臣蔵2
今回は「史実としての赤穂事件」と筑後のかかわり(特に寺坂吉右衛門伝承)を紹介します。
赤穂事件の経過は概ね以下のとおりです。時は元禄14年3月14日(1701年4月21日)。赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が、江戸城「松之大廊下」にて、高家・吉良上野介義央に突如斬りかかった。斬りかかった理由は不明とされる。江戸城では幕府が朝廷の使者を接待している最中だった。場所柄もわきまえず刃傷に及んだ浅野に対し第五代将軍徳川綱吉は激怒。その沙汰により浅野内匠頭は即日切腹、浅野家は所領の播州赤穂を没収の上で改易された。しかし吉良側に咎めはなかった。
浅野のみ即日切腹の沙汰を受けたことに家臣達は反発。筆頭家老である大石内蔵助を中心に対応を協議した。「籠城」も検討されたが、家臣たちは素直に赤穂城を明け渡すことにした。浅野家再興の道も残されており「籠城は得策でない」と判断されたからである。江戸に詰めている家臣の中には強硬派がおり、吉良を討ち取ることに強くこだわっていた。が、吉良邸の警戒は厳しく、彼らだけで吉良を討ち取るのは到底不可能だった。そこで彼らは赤穂へ赴き、大石内蔵助に籠城を説いたものの、大石はこれに賛同しなかった。赤穂城は予定通りに幕府に明け渡された。
急進派の動きが幕府に知られると浅野家再興に支障が出るので(主家再興を目標とする)大石内蔵助は江戸急進派の暴発を抑える為に彼らと二度の会議を開く(江戸会議・山科会議)。しかし浅野内匠頭の弟・浅野大学の閉門が決まると浅野家再興の道は事実上閉ざされた。そのため家臣達は京都円山で会議(円山会議)を開き内蔵助は吉良邸に討ち入る事を正式に表明した。仇討ちの意思を同志に確認するため「討ち入りを取り止める」と偽った上で事前に作成していた血判を同志達に返して廻り血判の受け取りを拒否して仇討ちの意思を口にした者だけを同志として認めた。
大石は江戸に下り深川で会議を開いた(深川会議)。意思を固めた討ち入りメンバーは元禄15年12月14日(1703年1月30日)本所の吉良邸に討ち入り吉良上野介の首をとった。
広大な吉良邸跡の一部は公園として保存され公開されています。赤穂事件の後、吉良邸が廃されて以降「本所松坂町」と呼ばれるようになりました(したがって吉良在世中の地名を「本所松坂町」と呼ぶのはまちがいです・司馬遼太郎「街道をゆく№36」65頁)。
首洗いの井戸が保存されています。
忠臣蔵では敵役となった吉良氏ですが地元では良い領主として評価されていたようです。
「もし吉良義央が従来どおり呉服橋御門内に住んでいて赤穂浪士が襲撃したりすれば、大手御門にも近く、幕閣の責任が重大なものになる。幕閣としてはそんな目に遭いたくないために新開地の本所へやったのではないか。同時に討たれ易くしたのではないか。」司馬遼太郎はこう推測します。
良く知られているように討ち入りに参加した人数は大石以下47人です。赤穂浪士らは吉良邸から引き上げます。登城路である両国橋ではなく一之橋・永代橋を通り泉岳寺に向かいました(両国橋では広小路で休憩しただけ)。無用な争いを避け主君に早く報告したかったのでしょう。
引き上げの途中で寺坂吉右衛門が消えていました。この点に関しては、寺坂は討ち入り直前に逃亡していたという説・討ち入り後に大石良雄の密命を受けて一行から離れたという説・足軽身分の者が討ち入りに加わっていることが世間に知られると「公儀に憚りがある」と大石が考えて意図的に逃したという説等があります(真相不明:このことが事後の寺坂吉右衛伝承に繋がる)。
大石らは討ち入りを幕府に報告し「お預け」の藩邸にて全員切腹し泉岳寺に葬られました。
なお、最前列右端にある寺坂吉右衛門の「墓」は後日追加されたもののようです。
上述した「消えた浪士:寺坂吉右衛門」に関する伝承が筑後に存在するので以下紹介します(草野歴史資料館「仮名手本忠臣蔵と郷土に伝わる浪士伝説」21頁以下を参照)。
「石原家記」(安永2年)によれば赤穂事件の後、久留米藩士の羽田重矩・柘植定長・速水助之進・中村山三郎らは藩に進退伺を出し「遠慮」を申し付けられた。これは大石内蔵助の参謀格だった吉田忠左衛門の妻リンが羽田重矩・柘植定長の実姉であったことによる。また「系譜別録全」(文政4年)によれば、忠左衛門配下の足軽:寺坂吉右衛門が元禄16年5月末に羽田伝左衛門と柘植六郎左衛門に充てた書簡で、吉田忠左衛門が(大石内蔵助の命で)隠れ家の斡旋や武具調達など周到に準備して討ち入りしたことが記されている。同年2月24日、柘植六郎左衛門は忠左衛門の娘サンと弟伝内に書状を送り「寺坂吉右衛門が12月27日に戻る」旨を伝えている。
一念寺(八女市)には寺坂吉右衛門が所持したと伝わる槍と長鉈が保存されています(久留米藩の矢野一貞が執筆した「筑後将士軍談」にも言及あり)。一念寺境内の裏山には吉右衛門の「墓」が存在します。墓碑には「願誉順故大徳:享保十四年任九月二十六日」と刻まれています。
善福寺(久留米市寺町)には寺坂忠左衛門所縁の観音像が存在します。この像について亡古賀幸雄先生(久留米郷土史の巨匠)は論考「忠臣蔵と久留米」において「寺坂吉右衛門が背負って帰国した自彫の観音像」と説明されています。*善福寺は画家古賀春江でも著名です。
赤穂事件は「歌舞伎」や「人形浄瑠璃」を通じ江戸時代の日本全体に影響を及ぼしましたが、遠い筑後にも少なからぬ影響を与えていました。これらを念頭に置いて「仮名手本忠臣蔵」を見聞すると違った味わいがあります。(続)*次回は「久留米おきあげ」による仮名手本忠臣蔵の紹介です。
* 2024年10月26日久留米まち旅博覧会で善福寺を訪れました。早めに出向いてご住職様から「寺坂吉右衛門が背負って帰国した自彫の観音像」(秘仏)を特別に見せていただきました。企画の目玉は仏教画(貼り絵)を描くことと薬膳カフェ「クラ」のお弁当。貼り絵が満足に仕上がったので気分良く食事できました。食事する部屋に古賀春江が若い頃に描いた肉筆画(シュールではない風景画)が展示されており、これを観ながらの贅沢な食事でした。参加して良かったです。