山川招魂社と陸軍墓地
山川招魂社の付近には幕末から昭和にかけての久留米の歴史が凝縮されています。松本茂「久留米藩難から新撰組まで」(海鳥社)「久留米市史」等を基礎にして御案内します。
(*本稿は改訂版です。山口淳「軍都久留米」花乱社を参考に加筆補正しました。)
久留米藩は明治2年、高良山の山麓にある茶臼山に招魂所を設けました。嘉永6年以来、勤王思想に殉じた真木和泉守保臣(水天宮宮司:禁門の変で活躍し天王山で自刃)以下38名の志士を合祀したのです。明治6年、高山彦九郎(勤皇思想の先駆者)の祠堂として御楯神社が創建されました。境内には真木和泉守や稲次因幡(享保一揆で尽力:藩主の怒りに触れ蟄居)の墓碑があります。
明治7年、招魂所に隣接して陸軍墓地が併設されます。この地に「佐賀の役」の戦死者63名、「西南の役」の戦死者190名の墓が建てられました(官修墓地:明治7年内務省達)。
西南の役の戦死者190名は大阪・和歌山等遠方の出身者であり、その多くが政府軍の陣地たる久留米の軍団病院で亡くなった方々です。 西南の役の「官軍墓地」と「薩軍墓地」は熊本県北部に多数ありますが、我が久留米にも存在したことを私は最近まで知りませんでした。
佐賀の役の「首謀者」と決めつけられた江藤新平は初代司法卿(現代風に言えば法務大臣)として活躍した人です。政敵である大久保利通の憎悪を浴びてさらし首となり、写真まで市民にばらまかれ、死後においても屈辱を受けました(その半生は司馬遼太郎「歳月」に詳しい)。「佐賀の役」は大久保の江藤に対する憎悪から引き起こされた「私戦」という側面もあります。
佐賀県から碑文の「賊徒」の文字を削ってもらいたいとの申し入れがなされたことがありますが、現在もそのまま残されています。近時は「佐賀戦争」と呼称する動きも見受けられます。
日本の中央権力にとって「九州を足場とした有力者が軍隊を伴って都に駈上って来るイメージ」は恐ろしいものでした(古代の磐井・中世の足利尊氏・江戸末期及び明治10年の薩摩軍等)。九州は中央権力の支配が及ばない「独立国」的色彩を呈する時があり、かかる勢力が大陸と結びついて中央と対立することは非常な恐怖でした。そのため古代より久留米は九州全体を制圧する軍事的拠点として重要な位置づけを与えられました。高良大社には社を取り囲む形で神籠石(朝鮮式山城)があり南北朝時には毘沙門嶽城(現・つつじ公園)に懐良親王の九州征西府が置かれました。
毘沙門嶽という名称は高良玉垂神の本地仏が毘沙門天とされたことに由来。明治以前の高良山は神仏習合であり(「中世高良山の終焉」参照)多くの天台宗寺院が参道脇に並んでいました。闘いの守護仏・毘沙門天を本地とするところに「高良山の軍事的意義」が表象されています。
近代久留米が「軍都」の性格を強めた背景にはこのような「地政学的要因」が存在します。明治30年に歩兵第48連隊と第24旅団司令部がおかれ、明治40年には第18師団がおかれました。大正時代に日独戦争(第1次大戦)における主力部隊となった久留米には最大の俘虜収容所が設けられ後世の久留米に多大の影響を与えました。久留米は陸軍軍人の出世コースであり、真崎甚三郎や東條英機も久留米に住みました。若き日の司馬遼太郎も久留米の戦車部隊に配属されました。現在も久留米に陸上自衛隊幹部候補生学校が置かれているのは上記歴史的経緯を背景としています。
山川招魂社の入口の石段を登ってすぐ右には「爆弾三勇士」碑があります。爆弾三勇士は昭和7年上海事変で久留米混成第24旅団(金沢の第九師団との混成)の工兵部隊員3人が爆弾を抱えたまま敵の鉄条網に突っ込んで爆死したという軍国美談です(事故死説も有力です)。
昔、久留米市公会堂前に「爆弾三勇士」銅像がありました。
この銅像は昭和19年3月に金属回収のため消失しています。台座は手直しされて農業研究センター(久留米大学御井学舎前)に置かれています。国分の久留米自衛隊広報館には「爆弾三勇士」のコーナーが設けられています。
東京九段坂上の靖国神社(旧東京招魂社)レリーフには「爆弾三勇士」を題材としたものが現在も残されています。
爆弾三勇士は昭和7年当時の久留米市民を熱狂させ、その衝撃は全国を駆け巡りました。東活シネマは爆死の2日後に「忠烈!爆弾三勇士」の映画化を決定し、歌舞伎・新国劇・新派・松竹レビューなどが一斉に三勇士を取り上げました。爆弾三勇士は史上初めての「特攻」であり、それが大戦末期の大量の特攻死を誘引したのではという見解もあります(山本厳「福岡から見た昭和史」侃侃房18頁以下)。
奥に「大東亜戦慰霊碑」があります。大戦の当時、日本では「太平洋戦争」なる呼称は存在しません(PacificWarは戦後アメリカが定着させた呼称:平和のための戦争とも読める)。その奥に龍兵団(第56師団)の碑があります。龍兵団は菊兵団(第18師団)とともに「陸軍最強」と言われた軍隊であり、ビルマ方面にて従軍しました(作家松本清張も龍兵団に配属されていました)。
山川招魂社の北東に個人の所有する畑(一段低くなった隣接地)があります。これが後に払い下げられた「旧陸軍墓地」です。松本前褐書には「畑の西隅に陸軍の星のマークがついた納骨堂が残っており『陸軍墓地之跡』と刻まれている」との記載があります。当時の面積は3642坪もあったようです(山口書)。以前私も現地に行ったことがありますが、深い藪の状態になっていて全く足を踏み入れることができませんでした。この旧陸軍墓地は、昭和17年4月10日、現在の久留米競輪場に移転しています(事後の詳細については「久留米競輪2」を参照されたし)。
*「軍都久留米」花乱社2024/3/11。軍都の光と影がバランスよく叙述されています。