頭の良い人≠行為の人
寺田寅彦は「科学者とあたま」と題する評論でこう述べている。
頭の良い人はあまりに多く頭の力を過信する恐れがある。その結果として自然が我々に表示する現象が自分の頭で考えたことと一致しない場合に「自然のほうが間違っている」かのように考える恐れがある。(略)科学の歴史はある意味では錯覚と失策の歴史である。偉大なる愚者の・頭の悪い・能率の悪い・仕事の歴史である。頭の良い人は批評家に適するが、行為の人にはなりにくい。全ての行為には危険が伴なうからである。けがを恐れる人は大工にはなれない。失敗をこわがる人は科学者にはなれない。科学も、やはり頭の悪い・命知らずの死骸の山の上に築かれた殿堂であり、血の川のほとりに咲いた花園である。一身の利害に対して頭が良い人は戦士にはなりにくい。(小宮豊隆編「寺田寅彦随筆集第4巻」岩波文庫)
頭の良い弁護士は「頭の力」を過信するおそれがある。実際の事件が我々に提示する現象が自分の頭で考えたことと一致しない場合に「事実のほうが間違っている」と考える可能性すらある。が、そんな馬鹿な話はない。実務家にとっては目の前の事実が全て。弁護士の仕事も「錯覚と失策の連続」だ。偉大なる愚者の能率の悪い行為の連続と言える。「頭の良い人」は批評家(法律学者や裁判官)には適するが行為の人(弁護士)には向いていない。弁護士が行う全ての行為には危険が伴なう。だから法的意味の「けが」を恐れる人は弁護士には向かない。「失敗」を怖がる人も弁護士には向かない。弁護士の仕事は頭の悪い・命知らずの・死骸の山の上に築かれた殿堂であり「血の川のほとりに咲いた花園」である。失敗に対して敏感すぎる人は弁護士に向いていない。何故ならば我々は大工であり・科学者であり・戦士であり、要するに「行為の人」だからである。