一隅を照らす・地方に生きる
比叡山延暦寺を開いた最澄は「良い菩薩僧を養成するためには南都東大寺戒壇院で小乗戒を受けるのではなく京鬼門の比叡山に大乗戒壇を設け・ここで戒を受け・12年籠って山岳修行することが不可欠だ」と考えました。しかし、この構想に南都七大寺が強く反対したため、大乗戒壇の独立は容易ではありませんでした。その最澄が著す「山家学生式」の冒頭にこう記されています。
国宝とは何物ぞ。宝とは道心なり。道心ある人を名付けて国宝と為す。ゆえに故人の曰く、径寸十枚はこれ国宝に非ず。一隅を照らす。これ即ち国宝なり。
この言葉には複数の解釈があります。私も明確に言語化できている訳ではありませんが、自分の行動指針として常に意識しています。道心を忘れないこと・世間ウケを目指すのではなく目の前の依頼者のために全力を注ぐこと。以前も書いたことがありますが、私は学者を目指していた時期があります。若気の至りでそれなりの大風呂敷を広げていました。が、自分にその才が無いと悟った時に、モラトリアム(時間稼ぎ)として司法試験を受け、何とか救ってもらいました。九州の小さな地方都市にて法曹実務家として生きることを許された私が意識したのはとにかく「地に足の着いた仕事をすること」。仕事をする中では学問や政治や芸能への繋がりも認識しましたが<自分の分>というものはわきまえていたいと思いました。地図に喩えると、世界地図は(丸い地球を紙という2次元で表現するために)歪みを内包せざるを得ません(メルカトル図は面積が・正距方位図は形が滅茶苦茶です)。しかし縮尺が小さい地方都市図は正確に作れます。法曹実務家としての自分の「分」とは正確な地方図を作ること。自分にとって「一隅を照らす」とは依頼者と謙虚に向き合って歪みを生じさせない地図を創ること。それが「地方」(地宝)に生きることではないかと私は思っています。