ちょっと寄り道(軽井沢1)
3月に東京へ出向く機会がありましたので、軽井沢に足を延ばして歴史散歩をしました。長くなるので3回に分説します。1日目は旧軽を中心に歩きます。参考文献:宮原安春「軽井沢物語」講談社文庫、テレビ埼玉他「中山道 風の旅 軽井沢馬籠編」さきたま出版会、山形政昭「ウイリアム・メレル・ヴォーリスの建築」創元社、ヴォーリス「失敗者の自叙伝」近江兄弟社、堀辰雄「風立ちぬ・美しい村」新潮文庫、岡村八寿子「祖父野澤源次郎の軽井沢別荘開発史」牧歌舎、小島直記「創業者・石橋正二郎」新潮文庫、原達郎「オノ・ヨーコの華麗な一族」柳川ふるさと塾など。
東京駅を出た新幹線「はくたか」は高崎駅を出ると北に迂回する。長いトンネルに入り巨大な地下ループで高度を稼ぐ。明治時代に長い時間をかけアプト式軌道で登った66・7パーミルの碓氷峠を回避し、新幹線は地下を短時間で走り抜けた。長いトンネルを出ると直ぐに軽井沢駅。改札口を出てコンコースに出る。真夏でも涼しい標高1000メートル近い高原である軽井沢はまだ寒さを感じる季節。駅の南側にある山の斜面では人工雪でつくられたスキー場で滑っている人の姿が見える。タクシーに乗る。車は軽井沢本通りを北に向かい旧軽ロータリーを右折する。この道を車に乗ったまま通り抜けられることに私は驚いた。運転手さん曰く「ここが車両進入禁止になるのは繁忙期だけで、他の時期は車で抜けられます」。いわゆる旧軽銀座通りを抜けて1泊目の旅館「つるや」に着いた。宿場町としての軽井沢の面影を残す貴重な宿である。つるやは中山道軽井沢宿の最も碓氷峠側に位置する。碓水峠を超えた旅人にとってこの宿は最も手前にあった。その好立地ゆえにつるやは多くの文化人に愛され名旅館たる地位を維持出来てきたのだ。フロントに荷物を預けて歩き出す。
右手に芭蕉碑がある。「馬をさへ ながむる雪の あした哉」芭蕉翁の150回忌に際して俳人小林玉蓮によって建てられた。峠側に少し歩くと「ショー記念礼拝堂」。避暑地としての軽井沢は明治19年にカナダ人の宣教師アレクサンダー・クラフト・ショーがこの地を訪れ、故郷と似た気候であることに感銘を受け夏を軽井沢で過ごすようになり、明治21年別荘を建てたことに起源を発する。彼は宣教師として来日したのだが、縁あって福沢諭吉宅に寄宿し翌年慶應義塾の倫理学教授となっている。明治28年、ショーは軽井沢最初のキリスト教会(礼拝堂)を建てた。これこそが目の前の建物なのだ。ゆえにこの地は「軽井沢という聖地」の出発点というべき場所である。堂裏にショーが最初に所有した別荘が移築保存されている(ショーハウス記念館)。木造2階建て下見板張り。プロテスタントらしい清貧な作りである。もともとは日本人の民家であり、これを西洋風に改造したものだ。この建物は平成8年に軽井沢町に寄贈されたものであり、訪問者には軽井沢町教育委員会作成によるリーフレットが配布される。峠に向かう道の途中に「二手橋」がある。江戸時代に、一夜を共にした飯盛女(遊女)と旅人が分かれる橋(旅人は右手に・遊女は左手に)として付いた名らしい。江戸時代に宿場町で普通に観られた風景だ。軽井沢は遊興を帯びた普通の宿場だった。プロテスタント宣教師の倫理的姿勢が以後の軽井沢の雰囲気を一変させたのである。
つるや旅館裏の道は「水車の道」と呼ばれている。昔、つるや当主が隠居すると水車で蕎麦を挽いていたことによる名らしい(今は水車は無い)。北の別荘地ゾーンへ山を登る。ここは最初期の別荘地であり愛宕神社に登る道なので外国人から「アタゴレーン」と呼ばれた。愛宕神社は京都の愛宕神社から勧請されたものであるが、外国人にとっては地蔵菩薩の霊場とか天狗の本拠地などという本来の意味などどうでもよかった。「Atago」という読み方さえ判ればよかったのだ。外国人たちは宿場周辺に別荘を建てた。生活物資は宿場から調達する必要があったので自然な流れである。明治34年9月に印刷された「信州軽井沢心全景(MAP OF KARUIZAWA)」には本通りの北に18件・東に16件・南に13件、西に18件の別荘が描かれている。その主たる所有者は外国人であった(例外は後述する「鹿島の森」の六軒別荘と新渡戸稲造)。現在、アタゴレーン入口には所有者の名が書かれた札が立てられている。別荘は狭い道の両側に広がっていて道の先端が行き止まりになっている。何故こんな形状なのか?明治の交通手段は徒歩か馬だったからである。車両が出入りすることを想定して道が造られていない。道の両側に浅間石を積み上げた簡単な低い塀が築かれている。土地の境界は結構あいまいなままである。地価が高いだろうにこれで良いのか?と職業柄感じてしまった(そのようなトラブルを無くす「軽井沢ルール」があるのだろうと善意に解釈しておく)。堀辰雄は「美しい村」において他人の別荘に入り込みベランダに腰を下ろして煙草を吸う楽しみを語っている。が、当時はともかく、今それをやって発覚したら、トラブルになりそうな気がする(たぶん)。
「水車の道」に戻ると「神宮寺」裏手。神宮寺は(神仏習合下で)神社境内に置かれた寺院を指す一般名詞であるが、ここ軽井沢では一般名詞ではなく、峠の熊野神社にあった神宮寺が神仏分離のため移された結果として生じた固有名詞である。当然ながら江戸時代は「神仏習合」こそ村人の宗教であった。神宮寺を抜けると本通りに出る。「軽井沢銀座」と俗に呼ばれている道だ。夏の最盛期には多くの観光客でにぎわうが今回は未だ寒さが残る時期であるのに加えコロナ過の影響もあり人通りは極めて少なかった。本通りには外国人避暑地として本格的に機能しだした頃からの老舗(ジャム・写真・靴など)が並んでいる。この本通りは宿場町だったところであるから地割はいわゆる「ウナギの寝床」(細長い土地・間口が狭く奥行きが深い・佐藤靴屋は間口13m・奥行70mという)。佐藤孝一「かるゐざわ」(1912)によると、明治44(1911)年時点で178軒あった別荘の大半は外国人の所有であった。ホテルに宿泊した外国人避暑客は6597人で20か国から人が集まっていた。この本通りは(明治大正昭和初期に)横文字の看板に彩られた「コスモポリタンの町」だった。こういう風景は日本の一部で既に明治初頭に生じていた。居留地だ。特に横浜・神戸・長崎が顕著であった(他に東京築地・大阪川口・函館・新潟)。開国当初、外国人の国内雑居は認められていなかったからである。旅行の際は政府の許可を得る必要すらあった。居留地の制度が撤廃され(明治32・1899)外国人が自由に居住できるようになった。先だって碓氷峠にアプト式鉄道が開通しており(明治26・1893)東京との往来が格段に容易になった。そのため夏の軽井沢を愛していた外国人たちは、この地に別荘を持ち、交流するようになったのである。
軽井沢は浅間山の噴出物で出来た高原であり寒冷であるために農作物があまり採れなかった。それゆえ中山道を行く旅人の落とす金銭がこの地の生命線だった。その中山道が使われなくなり従来の意味の旅行者が激減していた軽井沢にとって外国人から新しい「避暑地としての価値」を見出されたことは渡りに船であった。軽井沢の民が金銭を豊富に落としてくれる外国人顧客を歓待したのは当然の帰結であっただろう。目立ったのはイギリス・カナダ・アメリカというプロテスタント文化圏の者である。彼らは「娯楽を人に求めず自然に求めよ」という理念を掲げ、質素で自然に溶け込んだ生活様式を愛好した。彼ら外国人の生活様式こそが現代に繋がる「自然志向・俗化防止・文化向上」という規範(いわゆる「軽井沢ルール」)を産み出したと言えよう。
現在「観光会館」と呼ばれている建物は昔の郵便局を模倣して建築されたレプリカである(本物は翌日行く「タリアセン」に移築されている)。2階にアプト式時代の横軽鉄道路線について解説したコーナーがある。横川に行く3日目を意識し多くの展示物を興味深く拝見した。道を左折すると「軽井沢会テニスコート」が見えてくる。軽井沢を象徴する施設である。軽井沢会の旧名は「軽井沢避暑団」だ。大正5年に財団法人として設立された。昭和16年、軽井沢集会堂と合併し「財団法人軽井沢会」と改組された。現在は一般社団法人となっている。
軽井沢会のクラブハウスは建築家ウイリアム・メレル・ヴォーリスの設計による。ヴォーリスは明治38(1905)年に近江八幡の英語教師として来日した(2018年10月1日「田中吉政の遺産1」参照)。ヴォーリスは強い伝道者精神を持っていたが故に2年後、英語教師を解任される。この解任劇こそが彼と日本に幸福をもたらした。職を失ったためにヴォーリスはアメリカで身に付けていた知識と技術を生かして明治41年に京都で建築事務所を開業する(当時、建築を業とする際に資格は要求されていなかった)。ヴォーリスは来日した明治38年夏、旅行で軽井沢を訪れたことがあり、軽井沢の自然と気候に魅了されていた。身体が弱かった彼には軽井沢の冷涼な気候が健康に良いと思われたのであろう(ヴォーリスは標高1600メートルの街デンバーで高校大学を過ごした・他方、軽井沢は明治14年に陸軍の脚気患者療養所が作られている)。軽井沢にはプロテスタント宣教師が国内外から集まっていた。この雰囲気がヴォーリスを魅了する。ヴォーリスは「近江ミッション」設立翌年である明治45(1912)年に軽井沢にコテージを建てた。そして軽井沢を近江八幡に次ぐ拠点と決め建築事務所を本通りに構えた。軽井沢で得た人脈と本通りの事務所は全国に広がるヴォーリス建築の重要な基盤なのだった。ヴォーリスは軽井沢で自分自身の伝道者精神をも発揮した。定期的に開かれていた日本全国宣教師会の仕事・ユニオン教会で開かれていた音楽会の準備作業・地元の木工職人から頼まれた軽井沢彫りの家具のデザイン・町の商店から頼まれた看板の装飾など、持ち前の才能を発揮していった。昭和2(1927)年、ヴォーリスは「軽井沢避暑団」副会長に選出され、軽井沢ユニオン教会(1918)診療所(1924)テニスコートクラブハウス(1930)など優れた作品を残していった。彼は建築事業で得た資金を医療(診療所)や教育(幼稚園)などのミッション活動に使い、自身は清貧に努めた。ヴォーリスは「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(@マックス・ウェーバー)を体現した人物である。
テニスコート南側に「ユニオンチャーチ」と「諏訪神社」が仲良く並んでいる。不思議な風景だ。昔、大航海時代に大村純忠から長崎を寄進されたイエズス会は領域内の寺社仏閣を全て焼き払った。「キリストの精神を全世界に広める」宣教の精神は背後に「民族差別」「人種差別」の契機を有していた。豊臣政権や徳川政権がキリスト教の布教に警戒心を持ったのも故なしとしない(2017年1月10月「長崎」参照)。軽井沢で「ユニオンチャーチ」と「諏訪神社」が仲良く並んでいる風景は明治大正時代の宣教師たちが日本の宗教や習俗に敬意を払い慎重に活動したことを私に感じさせる。
道を引き返す。チャーチストリートを抜けると「聖パウロカトリック教会」。昭和10年、レーモンド設計。昭和13年に書かれた「風立ちぬ」最終章でこう記述されている。「昔、私が好んで歩き回った水車の道に沿って、いつか私の知らない間に小さなカトリック教会さえできていた。」この教会は当時は新しい建物だったのである。コロナ禍で閉じられており内部見学不可。
西(旧軽ロータリー方面)に向かう。真っ直ぐ西に行けば「ゴルフ場通り」であるが斜め左の旧中山道の通りを歩いてゆく。2番目の角を右折すると、いかにも軽井沢らしい典型的な別荘地帯が広がっている。ここは「鹿島の森」と呼ばれているゾーンだ。鹿島のホームページによると、鹿島がこの地に縁を持ったのは鉄道工事による。明治17(1884)年5月に上野高崎間が・明治18年10月に高崎横川間が開通した。多くの区間を施工したのが鹿島組だった。直江津から着工していた直江津軽井沢間は明治21年12月に開通。そして最後の難関、横川軽井沢間の路線図が決まったのが明治24年2月である。鹿島組は26本のトンネル中10本を施工している。大変な難工事であったが、明治26年4月に横川・軽井沢間が開通した。鹿島が軽井沢に別荘地を持つに至ったのは工事関係で付き合いのあった鉄道局技師本間英一郎の存在が大きいようだ。本間は、鹿島が最初に手掛けた敦賀線の時の鉄道局准奏任御用掛で、高崎横川間・横川軽井沢間の工事も本間の担当だった。本間は最初期から軽井沢に別荘を建てた日本人の1人である。本間は鹿島岩蔵に軽井沢の土地の購入を勧めた。その頃、佐藤万平(もと亀屋旅館・後の万平ホテル主人)が岩蔵に土地の話を持ってくる。岩蔵は佐藤から長野県が経営していた種畜場と獣医講習所の土地を手放すことを聞く。明治24年、鹿島岩蔵はその払下げ地15万坪を合計750円で安価に落札した。競争相手は全くいなかったようだ。岩蔵は、ここに自分の別荘と外国人向け貸別荘5軒を建設する(「六軒別荘」)。今も「ブドウの房」状の区画になっている。両脇に凄い別荘が並んでいる。主な所有者の名を取って中央は近衛レーン・左は鳩山レーン・右はノーマンレーンと呼ばれる。近衛レーンは行き止りになっている。右に曲がりゴルフ場通りに出る。「御膳水」と呼ばれる地がある。湧出量が多く水質も良いとされる。江戸時代は大名に・近代以降は皇族などに献上されたので「御膳」の名がつけられた。「ホテル鹿島の森」敷地にあるが、興味がある方は道路から下って見学することが可能である。
道の反対側に風格のある建物が見える。「旧軽井沢ゴルフコース」である。大正8(1919)年開設の名門だ。私はゴルフをしないが、このゴルフ場は日本のゴルフ場の中で最高ブランドと評することができるのだろう。ゴルフ場を右手に観ながら、御水端通りを南下。左に流れているのが雲場川。しばらく歩くと川を横切る通路が設置されている。ここを渡り川の左に移って川を右手に見ながら歩き続ける。目的とする建物を見つけた。株式会社ブリヂストンの別荘である(標識が出ている)。少し道を戻ったところに工事中の建物があった。工事標識に石橋某氏(石橋財団理事長)の名前を発見した。ここは間違いなく石橋正二郎が昭和13年に購入した地である(山幸荘)。久留米人として私は若干テンションが上がった。近くに鳩山氏別荘があるのも納得できる配置だ。ちなみにブリヂストンの本社がある土地(京橋1丁目1番地)は、正二郎がこの軽井沢の別荘を入手した際、その旧所有者から勧められたものであり、言い値のままに購入したものという(石橋正二郎「私の歩み」79頁)。経済界の上層は密接につながっているものなのだ。
精進場川を渡る橋はブリヂストン橋と命名されている。渡った先は大隈通り。この通りを左に歩くと「六本辻」だ。野澤源次郎の土地開発者としての才能を物語る。少し野澤について触れることにしよう。野澤源次郎(1864ー1955)の本業は貿易である。父の創始した野澤組を受け継ぎ発展させた。明治27年から1年半もの視察旅行をして欧米の街づくりを学んでいる。彼にとり土地開発はいわば副業的なものであったが、しかし、だからこそ野澤は目先の利益だけではなく長期的視点に立った別荘地の開発をすることが出来た。野澤は本多静六(林学の権威)橋口信介(近代建築の権威)後藤新平(都市計画の権威)など錚々たるメンバーと交友を深めながら別荘地開発を進めた。大正4(1915)年、離山から旧軽井沢にかけての牧場約160万坪を川田龍吉男爵から譲り受けた。この広大な土地に西洋都市を模範に明確な区画整理と道路整備をし「野澤原」と名付け売りに出した。売却先も凄い。大隈重信・近衛文麿・徳川慶久・桂太郎などビッグネームが並ぶ。軽井沢は火山灰に覆われた地であり明治以前は森林がなかったので野澤は本多静六の知恵を借りながら別荘地に相応しい植物を選び計画的に植林を推進した。六本辻は単に見栄えを良くするため設けられているのではない。野澤の開発した巨大な別荘地をリンクさせるべく方向が定められている。東北から南西の旧中山道・雲場池と軽井沢本通りを結ぶ雲場池通り・南に行く雲場原通り・これに駅方向に向かう道を加えると6本になる。周囲には西野澤原・北野澤原・東野澤原という公園名が残る。
六本辻を旧軽方向に左折してイタリアンの店で軽い昼食を取る。旧軽ロータリーから本通りへ戻る。今度は南の方向へ足を延ばす。テニスコート東に集会堂があり、その先を入った周辺地も古くから外国人の別荘が設けられたところだ。その一角に室生犀星記念館がある。室生犀星は堀辰雄を軽井沢に導いた人であり記念館は室生の別荘だったところ。ただし、この日はコロナ渦のため入場できなかった。その東の石畳の道は「幸福の谷」(ハッピーバレー)と呼ばれている。堀辰雄「風たちぬ」最終章で「死のかげの谷」と対比して描写されているところだ。
「万平ホテル」は、明治27年に亀屋旅館から改名され明治34年に本通りから桜の沢の現在地に移転した、軽井沢を代表する高級ホテルである。喫茶室でロイヤルミルクティーを頂くのが定番だと聞く。宿泊者でなくとも喫茶室でくつろぐのは自由なのだが、私は気が進まずに引き返してしまった。ただ、このロイヤルミルクティーを愛していたジョン・レノンとオノ・ヨーコについては触れておきたい。オノ・ヨーコは両祖父が銀行トップだった日本有数のセレブだ。父方小野英二郎(柳川出身)は日本興業銀行総裁で母方安田善三郎は安田銀行頭取。父方・母方の一方または双方が軽井沢に別荘を持っていた。従兄・加瀬英明(外交評論家)が証言している。「私が洋子について初めてはっきりした記憶を持っているのは終戦直前に私達が疎開していた軽井沢の家に食料を取りに来たときである」(原達郎30頁)。オノ・ヨーコは幼いころ軽井沢に馴染みがあった。ヨーコはお爺ちゃんの縁で軽井沢に来ていたのだ。この小野家はブリヂストンの石橋家とも繋がりがあり、石橋正二郎の実妹は小野英二郎の孫に嫁いでいる。社会の上層は緊密に繋がっている。近代日本においてセレブの気軽な親戚付き合い・近所付き合いの舞台となっていた地が軽井沢だった。朝吹登水子「私の軽井沢物語」(文化出版局)には大正・昭和初期において軽井沢に集うセレブたちが親密な家族付き合い・近所付き合いを行っていたことが見事に描き出されている。第2次大戦中は多くの国の外交官の疎開地であり、戦後は占領軍が進駐した。そして占領終了後にさらに多くの政治家・企業経営者・文化人が集うようになった。こうして軽井沢は「日本一の別荘の町」となったのである。
万平通りを左折する。「堀辰雄の径」の1412番地に堀辰雄は別荘を有していた(現在はタリアセンに移築されている)。近くにサナトリウム(療養所)があった。彼がここに「死のかげ」を感じたのは理由なきことではない。西洋で巡礼者を宿泊させる施設を「ホスピス」と呼んでいたが時代の進展によりホテルとホスピタルに分化し、現在は「死に直面した患者を看取る場所」という意味が付されている。堀辰雄は軽井沢を「聖職者が集う場所」のみならず宿泊(ホテル)医療(ホスピタル)そして「死のかげ」を纏う施設(ホスピス)という重層的意義で認識した。かかる軽井沢の本質認識こそが堀辰雄を「永遠の軽井沢の作家」にしたのであろう。歩いて「つるや」に帰る。旅館特有の大型浴槽に浸かって1日目の疲れを癒す。夕食の時間であるが、私は夕食を軽く済ませるタイプなので、多くの料理が並ぶ旅館の豪華な夕食は苦手だ(つるやも朝食だけのプランで予約)。旧軽ロータリー近くの洋風居酒屋にて軽い夕食をとる。1日目はこれで終了。(続)