見ることと見られること
西洋において「見る」ことには特別な重要性が与えられています。西洋人は道路上の自分を見られることを嫌い、なるべく早くカフェの良い席を取って「見る」側に回ろうとしているように感じられます。16世紀頃に<視線>は確立しており、海外に赴く者はかかる視線で現地を見ることで植民地支配を完遂しました。「見る」ことと「権力」には密接な関係があります。
ミシェル・フーコーは「自分は見えない地位にあり相手を十分に見ることが出来る立場」の権力をパノプティコンという監獄になぞらえて考察しています(「監獄の誕生」新潮社)。
今や各人は、然るべき場所におかれ、独房内に閉じこめられ、しかもそこでは監視者に正面から見られているが、独房の側面の壁のせいで同輩と接触を持つわけにはいかない。
見られていても、こちらには見えないのであり、ある情報のための客体ではあっても、ある情報伝達を行う主体には決してなれないのだ。
「医者」「学者」「易者」には強い権力性が認められます。彼らは自分の依拠する判断基準をもち対象者に基準が共有されていません。対象者が語る言葉は判断客体としてのみ意味を有するのです。これに対し「役者」「芸者」は一方的に「見られる」立場です。歴史的にも彼らの多くは民衆から差別されてきたことが実証されています。これまで弁護士は圧倒的に「見る」立場で論じられてきました。たしかに弁護士は確固たる判断基準(要件事実)により相手を見ることがなければ職業的に成り立ちません。これが曖昧になれば自己の存在意義を失います。が、医者についてインフォームドコンセントが叫ばれるように・学者について教育者としての適格性が問題となってきたように、弁護士も「見られる」立場すなわち「芸者・役者」を意識しなければならなくなったのです。