孤独な作業が共同作業の中に組み込まれている
小説は書いた文字そのものが完成した作品です。しかしながら演劇や映画などにおける(文字が並んだだけの)「脚本」は完成品では全くありません。監督の指揮の下、脚本をもとにして役者がセリフを喋り、カメラマンが撮影し、照明・音声・衣装など大勢のスタッフがこれを支えます。つまり小説と異なり脚本は「それ自体が完成作品ではない・書くことは孤独な作業であるが同時に共同作業の中に組み込まれている・書き終えた後は現場の撮影スタッフに委ねるしかない」という際立った特徴を有しているのです。(中園健司「脚本家」西日本新聞社)。
弁護士が訴訟で遂行する主張・立証活動も脚本家の特性を有しています。弁護士が書く訴状や準備書面はそれ自体が完成作品では全くありません。証拠類もそれ自体で存在意義があるわけではありません。主張書面や立証活動は裁判所の心証形成に向けた手段的存在。一生懸命に多量の準備書面を書いても裁判所に読んでもらえなければ意味がないし、精緻な立証活動をしても裁判所に理解してもらえなければ意味がない。裁判官は訴訟の争点に絞った充実した主張立証を行うよう促し、主張と証拠を正確に理解し、解決の可能性を探るのが役割です。この主張立証活動や和解協議の場面は裁判官と弁護士の共同作業です。民事訴訟法は主張立証を当事者に委ねていますから裁判官は当事者が充実した審理が進むよう促す立場に過ぎません。しかし判決に至れば逆に弁護士は裁判官に全て委ねざるを得ません。不本意な判決をもらったときの弁護士の寂しさは自分の脚本がイメージ通りに映像にならなかったときの脚本家の寂しさに通じます。ただ弁護士は不本意な判決に対し不服を申し立てることが出来ます。自分の構想を練り直し別の撮影スタッフにリメイクしていただくことが可能です。その意味で弁護士の脚本製作現場は本当の脚本家よりも恵まれています。