宗教心と虚無感情
吉本隆明氏は「マチウ書試論」(講談社文芸文庫)において「イエスは架空の人物である」ことを前提にマチウ(マタイ)書の作者が「意識的に詐術を働いた」と述べます。
原始キリスト教徒はひとりの架空の教祖をつくりあげることによってイスラエル民族の史書であり神話の書であるヘブライ聖書にとどめを刺し、その思想的な流れを教義のなかに注ぎ込んだのである。こういう詐術をささえたのはユダヤ教に対する敵意と憎悪感であるが、彼らはその生理的とも言える憎悪感を思想の型にまで普遍化し、ヘブライ聖書の特異な解釈としてそれを定着させた。(63頁)
ミレニアムの年、ローマ法王は2000年にわたりキリスト教徒が異教徒に対し行ってきた迫害に対する謝罪のコメントを出しました。彼らは偶発的に暴力的行動に出たのではなく神の名の下に殺戮を続けました。キリスト教には平等と博愛だけでなく暴力と憎悪に満ちた要素があります。キリスト教徒が植民地支配に乗り出したのは宗教的使命を果たすためです。ジャン(ヨハネ)のアポカリプス(黙示録)が象徴する現存秩序への憎悪感は現代にまで影響を及ぼしています。アメリカが好戦的な国家たる性格を濃厚に有しているのは産軍複合体の存在という経済的側面だけではなく同国がキリスト教原理主義国家としての側面(福音主義)を有していることに負うところも大きいのです。
現代人の多くはかような「宗教上の物語」に関心がありません。現代人は宗教とは無縁の場所で心の底に虚無感情を抱えながら生きています。私は多くの犯罪者と対話してきましたが、自分の言葉が全く届かないほど虚無的な人には今のところあたっていません。心に本当の深淵を抱えた犯罪者と向き合わざるを得なくなったとき、宗教的な支え無しに対話することが出来るのか?私もよく判りません。最近ショッキングな刑事事件の報道に接するたびに私は「自分がこの事件の弁護人だったらどんな話を被告人と交わすのだろう?」と考え込んでしまいます。