知らないことで免責されるか
民法96条は、第1項で詐欺による意思表示はこれを取り消すことが出来ると定めつつ、第3項において取り消しの効果は善意の第3者に対抗することが出来ないと定めています。この「善意」とは事実を知らないこと「悪意」とは事実を知っていることを言います。「善意」「悪意」という表現に倫理的な意味はなく、単に知っているか否かという事実の表現に過ぎないことを法律学徒は最初に学びます。しかし、私はこの表現に倫理的意味を感じます。
親鸞は「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」と述べています(新版「歎異抄」角川ソフィア文庫16頁)。「善人」とは自力救済が出来ると考えている者を言います。自力による救済に絶望し「他力」である弥陀にすがろうとする「悪人」こそが真に救済されるべき者なのだというのが親鸞の信仰です。優れた宗教家は「誰もが悪人だ」と主張します。キリスト教の福音書も「罪なき者は石を投げよ(誰も投げられまい)」と述べています。「自分は悪人なのだ・その自分に救いはあるのか」という自覚こそ宗教的意識の始まりと言えるのかもしれません。
法律家は「善意」者(知らないと主張する者)を保護します。しかしながら宗教家は「自分は知らない・だから責任を負わない(私はイノセントである)」という言明を許しません。「知らない」という抗弁は倫理的に無効なのです。若い頃は「自分には責任がない」(自分は何も知らなかった・自分はイノセントである・自分はこの世界を引き受けられない)という感情を持ちがちです。 しかし我々は大人である限り自分がかかわっていない過去の問題について無責任であることが許されません。むしろ「責任を負うために」過去の出来事を「知ろうとする意思」を有したときに人は大人になる階段を昇り始めるのです。社会的文脈で「自分はそれを知っている・だから自分は責任を負う」と考えるに至ったとき、人は本当の意味で大人になると私は感じます。