存在と対話の意味
内田樹先生はブログでこう述べています。
「存在するとは別のしかた」 (autrement qu’être) というレヴィナスの難解な概念がすとんと肚に収まったのは、父親が死んで小さな骨壺と遺影を置いた棚に向かって、無人の家に帰るたびに「ただいま」と挨拶して手を合わせることが習慣化したときのことである。死んだ父はもう「存在しない」。けれども、父の語ったこと・語ろうとしたこと・あるいは父がついに語らなかったことについて私は死んだ後になってからも、むしろ死んだ後になって何度も考えた。そして、そのようにして「解釈された亡き父親」が私のさまざまなことがらについての判断の規矩として活発に機能していることにある日気づいた。存在しないものが存在するとは別の仕方で生きているものに「触れる」というのは「こういうこと」かと、そのとき腑に落ちた。そのとき「他の人々に注意を向ける」ことなしには「聖句」の「語られざること」は開示されないというレヴィナスの言葉の中の「他の人々」には死者たちが含まれるということに気づいた。含まれるというより、むしろ「他者」とはレヴィナスにおいて、ほとんど「死者」のことなのだ。「存在するとは別のしかたであなたがたは私に触れ続ける」という言葉は死者に向けて告げられる鎮魂の言葉以外の何であろう。
死者が語ったこと・死者が語ろうとしたこと・あるいは死者がついに語らなかったことについて、私達は「彼らが死んだ後になって初めて考える」という場面があります。対話をする者がいる限り死者は生き続ける。「存在とは別のしかたで」生き続けているのです。逆に言えば対話をする者がこの世に存在しなければ生者と言えども社会的には死んでいます。「不存在とは別のしかたで」死んでいるのです。日本には自殺する人が年間3万人以上います。彼らは死が認識されるまで生物的には生きていたのですが対話をする者がなくなった時点で社会的に死んでいたのだと思われます。存在することと対話することの意味を弁護士は考えなければなりません。