森と平野のメタファー
フェイスブック上における精神科医・富田先生との対話。
T (明治神宮の森の写真を示しながら)中井久夫先生はたしか「優れた精神療法家は森と平野との境界に生まれる」と述べています(「治療文化論・精神医学的再構築の試み」)。「平野」に棲む病める人々を「失われた『森』の文化」で治療するということでしょうか。西洋文明は森の伐採をもって森の文化の破壊の上に生まれてきました。失われた森の文化とは規範からの逸脱の承認と保護や・恵みである薬草や・魔女のあるいは山伏の呪術です。「森の文化」への回帰は人類の生き残りの道筋なのかもしれません。仮に人類が生き残りに成功しなかったとしても、まず最初に起こることは「森の再生」でしょうから。
H たしかに森は癒されるものですね。でも明治神宮の森は大正4年から造営が始まった人工的構築物です。人工構築物である森が自然なものと感じられるものとして存在し、これに人間が癒されるのであるならば、自然(森)対人工(平野)という2項対立感覚は正しくないような気がします。その延長で考えれば、中井先生の提言の趣旨は「優れた臨床家の要件は人工的なものを自然なものとして提示できることだ」ということかもしれませんね。
T 先生のおっしゃる通りです。ボクは「森を造りたい」と思っているんです。そのモデルを先人が示して下さっているのだと思いました。(引用終)
日本の森の多くは先人の長い苦労の上に成り立っている人工構築物です。森の文化の再生とは「自然への回帰」ではないと私は思います。「平野」で傷ついた人を癒すことが出来る「森」は実は人工的なモノなのです。その構築には人知れぬ長い長い年月と地道な労力を要します。傷ついた人を癒すことが出来るのは「森」なのです。優れた弁護士とは、長い年月をかけて作り上げた人工的な「森」を自然なものとして提示できる者を指すような気がします。