東京裁判の意味を考える
裁判という制度を冷ややかに観る見解はいつの時代も存在します。結論が最初から見えているような裁判は「茶番劇」にしか見えないでしょう。東京裁判に対しては現在も冷ややかな見方が存在します。私も「勝者の裁き」に対して違和感を有しています。しかし当時の日本政府に判決を受け入れる以外の政治的選択肢は存在しませんでした(サンフランシスコ講和条約の受諾条件)。被告人たちも自分の判断ミスによって生じさせた甚大な被害に対して自己の死をもって償いたいと考えていたと私は思います。重要なのは戦争責任が「裁判という形式」で議論されたこと。東郷茂徳被告人を祖父に持つ東郷和彦氏は、その意義をこう表現しています。
裁判という形式があったがゆえに1947年2月24日清瀬一郎の冒頭陳述が為された。裁判という形式があったがゆえに1947年12月9日に作成された東條英機宣誓供述書が生まれた。裁判という形式があったがゆえに1947年12月15日から26日まで行われた東郷尋問に対する全ての論証が世に出、その重要な点はのちに「時代の一面」として後世に残されることになった。民主主義と言論の自由を標榜する米国の占領政策が占領下で激しい言論統制を行ったことは今や公知の事実である。しかし裁判という形式があったがゆえに、その場所だけは完全な言論の自由が保たれた。(「歴史と外交」講談社現代新書)
法廷に完全な言論の自由が保たれていたか否かには異論があり得るところですが、パル判事やベルナール判事が少数意見を表明し得たことは法廷内に自由な判断空間が存在したことの証でしょう。戦勝国史観(検察官の主張)の無批判的受容が良くないのと同様に大東亜戦争賛美論(歴史修正主義)も良くないと私は思います。微妙な問題については「極端な見解を疑ってかかる」のが正解です。「敗北を抱きしめて」(@ジョン・ダワー)きた日本が国際社会で自己を確立していくためには近隣諸国との調和的な価値観を維持しつつ東京裁判の意味を考え続けることが必要です。