父と息子の構造化された物語
映画「Always3丁目の夕日64」を観ました。感心したのは主人公茶川と実父の関係、茶川が子供同様に育てている淳之介に対する関係が重層的に描かれていたこと。息子を誰よりも気に掛けているはずなのに憎まれ口を叩いてしまう父親。父親を最も嫌っていたはずなのに自分の子供に対して同じ行動を取っている息子。これは日本人の多くがどこかで見たことがある風景。例えば恩田陸「光の帝国」(集英社文庫)の第1話「大きな引き出し」。カンヌ映画祭で特別賞をとった映画監督・猪狩悠介。彼は父親と折り合いが悪く家出同然に実家を離れた。父は映画の仕事を許してくれなかった。少なくとも悠介はそう思っていた。しかし不思議な少年の導きで亡父のビデオデッキを見ると自分の作品が全て入っていた。スクラップブックには映画館のチラシ・入場券の半券・映画雑誌の評などがぎっしり詰まっていた。半券の脇には父の2・3行の的確な感想が書き込んであった。新作(特別賞受賞作品)も父は初日に見ていた。感想は「言ウコトナシ」。切り抜きには「オメデトウ」。悠介は号泣した。「3丁目の夕日64」にも同じ類の話が出てきます。小説家になることに反対していた父親が茶川が文学賞候補になった時に最も喜び、落選した時に最も落ち込んでいた。息子を愛する父の姿を息子は(父が生きている間)決して見ることが出来ない。死後にしか見ることが出来ない。この作品は父と息子の「構造化された物語」を見事に描き出しています。
私は司法試験受験生時代に父から「受験を止めるように」と何度か言われています。私は反発して<合格するまで実家に帰るまい>と決意しました。数年前に父が死んだとき、父の長年の知人の方から「あなたが弁護士になったときにお父さんは大変な喜びようだった」と言われました。私も知らないうちに父と息子の「構造化された物語」を生きていたのかもしれません。