信頼と責任
私は昨年フェイスブック上に次の書き込みをしました。薬師如来は日本以外ではほとんど崇められた形跡がない。インドには作例がないと言いチベットでも中国でもほとんど信仰された形跡がないと言う。ところが日本では国宝又は重要文化財に指定された仏像のうち阿弥陀如来に次いで多いのは薬師如来である(仏像探訪第4号63頁)。薬師如来は病気で苦しむ人がその名を唱えれば治るという現世利益の仏だ。日本人がいかに病気に苦しみ、苦しみからの救済を願っていたかが判る。私も医師に対して限りない敬意を有している。他人の医療事件に関してはクールに論評するのに自分の治療に関しては100%医師に従順である。かようなダブルスタンダードはいけないことだろうか?
福岡の菅藤弁護士から次のコメントがありました。
医師に依頼する患者の心境を知った上でこそ、医療事故に関して知・情・意でいえば「情」を掴んだ活動に結実するのではないかと。「法律家は悪しき隣人」、普段の仕事でのアクションのとおりに知人にも接していたら煙たがられることしきりでしょう。ダブルスタンダードはむしろ高次元の行動といってもよいのではないかと。
よく考えれば、1つの原理で凝り固まって行動している人は付き合いにくいですよね。場面ごとに対応する原理を使い分けて(ダブルスタンダードで)行動した方が世の中は生きやすいはずです。世間には「専門家を信頼するな」「専門家と闘え」と扇動する人がいますが、私はあまり付き合いたいと思いません。専門家への素朴な信頼を持っている人のほうが私は好きです。相談者が弁護士としての私に対し信頼を寄せてくれているかどうかは直ぐ判ります。責任はとても重いのですが、専門職としての私は嬉しく思います。専門職の生き甲斐とは「信頼される喜びと重い責任との間の緊張関係」の中に見い出されるものだと私は感じています。