黙示録的思考様式
堀川哲氏はキリスト教の倫理を次にようにまとめています。
世の中は不条理である。「何故この私ではなく、あんな悪い奴らがいい目を見るのか」と文句の1つも言いたくなる。この世の不条理に泣くとき、キリスト教の道徳があなたに救いと慰めを与える。あなたの不幸にも意味はある。それは神が与えたもうた試練である。それに耐えることに貴方の人生の意味はあるのだ。悲しむ事なかれ、何も心配は要らない。この世は仮の世だ。川面に浮かぶあぶくのようなものだ。人は誰でも死ぬ。金持ちも王様もいつか死ぬ。善人も死ぬが悪人もいつか死ぬ。あの世に行けば悪人には永遠の罰が与えられ、あなたのような善人には永遠の平安が与えられるだろう。神を信じよ。この世の全ては不幸も含めて神の計画の中にあるのだ(「世界を変えた哲学者たち」角川文庫)。
「苦難の教義」と呼ばれるこの思考様式は一神教に見受けられる特徴です。他の宗教圏の者が善悪を簡単に云々できるものではないと私は感じますが、この「黙示録的思考様式」が欧米や中東社会に深く根を張っていたことを認識しなければ、欧米や中東の歴史を理解することは出来ないでしょう。(「善人」を労働者「悪人」を資本家「罰」を革命「神の計画」を歴史の運動法則に置き換えればマルクス・レーニン主義の公式見解に置換することが出来ます。)
「あの世に行けば悪人には永遠の罰が与えられ、あなたのような善人には永遠の平安が与えられる。」という言葉を信じる人は少ないでしょう。「この世の全ては神の計画の中にある。」という言葉を受け入れられる人も少ないでしょう。法律家は「現世において」悪人に適切な刑罰が与えられ、善人には相応しい平安が与えられるように努力しなければならないのでしょうね。