■2022年01月04日(Tue) ちょっと寄り道(横浜2)
 2日目午前は吉田橋と馬車道・横浜港新埠頭・山下公園・日本大通りを、午後は中華街・元町・山手に足を延ばし最後に伊勢佐木町を散歩してみました。
(参考文献)横浜開港資料館「横浜外国人居留地」有隣堂、「目で見る都市横浜のあゆみ」横浜都市発展記念館、「開港場横浜ものがたり」「横浜中華街」「明治維新期の横浜英仏駐屯軍」横浜開港資料館、岡田直他「地図で楽しむ横浜の近代」風媒社、「80年目の記憶・関東大震災といま」神奈川県立歴史博物館、NHK「ブラタモリbW」角川書店、「チャイナタウン展・もうひとつの日本史」福岡市博物館、服部一馬他「占領の傷跡・第2次大戦と横浜」有隣新書など。

 2日目の朝。早めの朝食を済ませ「ホテルメッツ桜木町」をチェックアウトする。根岸線に乗り横浜駅に向かった。横浜駅で京急線(普通)に乗り換える。戸部・日ノ出町を通過し黄金町駅で下車。大岡川に架かる橋を渡り2日目の宿「ホテルマイステイズ横浜」に到着。フロントに荷物を預けて出発する。
 市営地下鉄ブルーラインに乗り「関内駅」で降りた。「関内」とは関外と対比した言葉であり居留地を仕切っていた関所の内側という意味である。開港時、関内と関外を区別するため3方向に新川(掘切ノ川)が開削された。居留地は「広大な出島」状態であった。横浜居留地は神奈川宿を開かないための江戸幕府の工夫である。繁栄していた神奈川宿を開かないため対岸の寒村に開いた「日本最大の開港場」こそが横浜だった。幕府は「横浜も神奈川の一部だ」と強弁することによって諸国を説得した。この強弁こそが後の横浜を発展させるのだから歴史は判らない。もともと横浜は宿場町神奈川の南側対岸に形成されていた砂州であった(福岡人は「海の中道」をイメージすれば良い)。砂洲は現在の中華街東から北に延びて、先端は現在の馬車道駅辺りであった(本町通りが砂洲の中心軸)。砂洲先端に弁天が祀られていた。弁天はインドの神様で神仏分離により厳島神社とされている。関内駅の北側にあるのが吉田橋。居留地に入る最重要な入口だった。関内と関外を仕切っていた新川は掘り下げられ道路になっており本来の景観を失っているが、吉田橋こそ横浜の基点であった。吉田橋から南西に延びるのが伊勢佐木町で、北東に伸びるのが馬車道。馬車道沿いに馬車の飾りのついた標識が数多く設けられている。高島嘉右衛門の手になる最初のガス灯は(当時の主要道である)馬車道と本町通りに設置された。

 馬車道と弁天通り(前述した弁天の旧参道)がクロスする地点に県立歴史博物館がある。旧・横浜正金銀行本店である。日本の外国貿易の拠点・横浜の歴史を象徴する建物。外国貿易を行うに当たっては「通貨交換比率」を定めること、すなわち外国為替を確立することが不可欠である(日米修好通商条約の締結後、ハリス等の外国人から日本側担当者はハメられ膨大な損失を出した)。この為替業務を担ったのが横浜正金銀行である。重厚感が特徴の建物設計者は妻木頼黄(つまきよりなか)。幕末に幕府旗本の長男として出生。工部大学校造家学科(東京大学建築学科)入学。コーネル大学建築学科に留学した後、数多くの官庁建築を手がけた。横浜正金銀行の本店・大連支店・北京支店は妻木が設計した。私はこれらを全て拝見した。大連支店は観光名所たる大広場の一角を占めており凄い存在感がある。北京支店は旧領事館地区(実質的な租界・東公民港)にありバスが偶然前を通ったので拝見できた。この横浜正金銀行本店は空襲で焼失しなかったので昭和20年の敗戦後に進駐軍に接収された。接収は昭和27年サンフランシスコ講和条約発効後も続き、この建物には長く金網が張り廻らされていた。関内地区は米軍のカマボコ型兵舎が立ち並び、閑散とした状況だった。その悲惨さを世間は「関内砂漠」と呼んだ。接収解除は昭和30年代後半(私が生まれた頃)。かように旧横浜正金銀行本店は重要な建築物であるが、開館時間前なのでパスした(夕方に時間があれば立ち寄ることにする)。

 海に向かって歩く。万国橋を渡って新埠頭へ向かう。この「新」という言葉に騙されてはいけない。現代横浜から観れば極めて「古」い埠頭である。絹貿易が盛んになると輸出品である生糸を運んでくる鉄道と船を直結する設備が求められた。そのため明治32(1899)年に起工し、大正初期に完成したのが新埠頭である。この新埠頭はアメリカから返還された「下関戦争の賠償金」で建設された。アメリカは不思議な国だ。極端に「暴力的な側面」と「紳士的な側面」を併せ持つ。物事を完全に二分割する一神教思考の典型と言える(相手側が悪魔とみれば容赦なく殺戮し・神側とみれば慈悲的に接する)。アメリカは自分がどの側面に接したかで印象が違うらしい。戦後、フルブライト奨学金が潤沢な資金を用意したのは「日本を二度と反米化させないようにする」意図が明瞭に刻まれていた。この奨学金を獲得しアメリカに留学した優秀な日本人学生はアメリカ流の政治理念を頭に叩き込まれ「親アメリカ知識人」になりアメリカ的「福音」を宣べ伝える役割を忠実に果たしたのである。
 この新埠頭には「戦前の横浜の活況」を象徴するモニュメントがたくさん残されている。赤レンガ倉庫2棟・巨大なドライドック・古いハンマーヘッドなど。
 サークルウォークの北側に「みなとみらい地区」が広がる。前述のとおり、横浜は戦後に市の中心部が米軍に接収された。商業的中心は横浜駅の周辺となり、観光名所である山下公園や港の見える丘公園と分断されてしまった。両者を繋ぐべく「21世紀横浜の中心とするために」海を埋め立てて造成されたのがこの地区である。
 サークルウォーク東北のJICA横浜国際センターに「海外移住資料室」が設置されている。開館時間前なので今回はパス(ここは以前拝見したことがある)。横浜は日本から海外へ移住する場合の渡航拠点であった。若い人には全く想像できないと思うが、日本はほんの最近まで貧しい国だったのである。昔は私の周囲にも海外への移住者が多く存在した。新埠頭には旧「横浜港駅」のプラットホーム遺構がある。横浜駅は桜木町駅から現在の場所に移設されたが、港湾と鉄道の連絡を図るためには港湾に直結した施設が是非とも必要であった。そのため設置されたのが横浜港駅である。海上に設けられた鉄道レール跡の道路は(馬車道と対比して)「汽車道」と名付けられた。今も遊歩道としての役割を立派に果たしている。
 大正時代に造られた赤レンガ倉庫が2棟並ぶ(1号倉庫は1908年着工1913年竣工・2号倉庫は1907年着工1911年竣工)。設計は妻木頼黄(横浜正金銀行と同じ)。補強材として鉄材を使用している。非常用水管・防火戸が備えられた耐震耐火構造。荷役エレベーターも設置された最新鋭倉庫であった。大戦後はアメリカ軍に接収され、港湾司令部が置かれた。接収解除後に本来の役割に戻ったものの、近代化の進んだ本牧埠頭などに役割を譲らざるを得なくなる(地図を広げれば判るが現在の「横浜港」は極めて広大であり、多くは企業が活用する工業埠頭である)。赤レンガ倉庫は昭和50年代に取引が激減したので、平成元年に倉庫の歴史を終えた。平成4年横浜市が国から所有権を取得し、補修工事を施して平成14年に「文化商業施設」として再出発した。横浜は「古いモノの再活用」が巧みだ。
 1号倉庫と2号倉庫の間にイベント広場がある。この日はロールスロイスオーナーカー倶楽部による催事が行われていた。赤レンガとクラシックカーの組み合わせが素敵である。1号館のカフェでエスプレッソを頂く。前に「シーバス」乗り場がある。シーバスに乗ることが今日の主要目的の1つだが、最初の便は午前10時40分発で未だ時間がある。それまで関内の主要部を回れるだけ回ることにする。

 目前にあるのが「象の鼻パーク」。昔のイギリス波止場である。日本大通りからの視線を遮る古い建物が取り壊されて横浜は最初期の景観を取り戻した。当然のことながら、この像の鼻は明治期の施設が現代まで維持されているのでは無い。この埠頭は関東大震災で被災して撤去されており、昭和の地図には描かれていない。この施設は最初期の横浜をテーマとして最近構築されたものなのである(2009年・横浜開港150年記念)。文字通り「テーマパーク」なのだ。
 「日本大通り」に出る。わずか300メートル程の短い通りだが、一貫して横浜の政治の中心である。この短い通りに「日本」という大袈裟な名前を付けたことに昔の人の鼻息を感じることができる。北の道を横浜公園まで歩く。神奈川県庁はキングの塔として著名であるが修理中であり覆いがかけられていて拝見できなかった。いわゆる横浜三塔(キング・クイーン・ジャック)と呼ばれる優美な建築物は海からの訪問者に横浜を感じさせるランドマークだった。歩くと「横浜」地方裁判所がある。神奈川県全域を管轄としているが、何故か「神奈川」地方裁判所ではない。国の機関である裁判所と検察庁は未だ「横浜神奈川問題」を抱えている。裁判所の裏に弁護士会がある。「横浜神奈川問題」に弁護士会は敏感であった。多くの議論の末に、平成28年4月1日から横浜弁護士会は「神奈川県弁護士会」へ名称変更された。
 横浜公園に対面する。現在は「横浜スタジアム」という野球場になっている。最初期の横浜においては遊郭(港崎遊郭)が置かれた地である。私には少し暗い印象がある。ちなみに横浜家庭裁判所は横浜スタジアムの裏側(労働者街:寿町)にある。
 折り返して南側の道を戻る。裁判所に対面する場所に設置されているのが情報文化センターである。私は平成17年3月に弁護士会の「三会交流会」(横浜・名古屋・福岡)のために訪れたことがある(私は同年4月から任期だったが次年度副会長として訪問している)。懐かしい処。脇に新聞少年の像がある。私は小学校4年生から新聞配達をしていた。日本の近代文明推進において新聞が果たした役割は大きいものがある。その新聞の戸別配達制度を最下層で支えていたのが新聞少年だった。
 「横浜都市発展記念館」に入る。開港から現在に至る横浜の発展の歴史が多くの資料で見事に表現されている。足早に見学。売店で若干の書籍と地図4枚を購入。少し歩くと「開港資料館」。ペリー横浜上陸の地であり旧イギリス領事館である。ここは横浜の象徴的な場所である。嘉永7(1854)年3月8日、ペリー提督を迎える応接所が設けられた地。応接所は2日前に完成したばかりであった。ペリーと幕府側代表・林大学頭(だいがくのかみ)の会談はつつがなく行われた。アメリカ側は幕府に蒸気機関車の模型と電信機を献上した。アメリカが日本に示した「文明」とは熱力学と電磁気学であった(これをいち早く理解し産業化に繋げたのが久留米出身の田中久重である:現在の東芝の始祖)。それから3月31日迄に何度も外交交渉が行われ、その結果、日米和親条約(神奈川条約)が締結された。その様子を描くハイネの絵にタブノキが描かれている。この木は関東大震災の際に黒焦げになったものの、強い生命力によって復活し、現在も開港資料館の中庭で緑色の葉を広げている。植物の生命の強さを感じずにはいられない。それに比べると人間の生命は短すぎる。
 横浜の開港は、当時の世界帝国であるイギリスにとって「東アジアに築かれた世界市場の一部」に過ぎなかった。横浜は香港・上海に次ぐ重要な拠点であった。それは東回り世界周航の円環構造の一部であり、スエズ運河の開設(1869)海底通信の開通(1871)などの交通通信革命をふまえた「小さくなる地球」の先取りだった(石塚裕道「明治維新と横浜居留地」6頁)。現代に生きる我々は近代史をアメリカ目線で意識してしまうが、幕末維新期の世界において政治的プレゼンスを示していたのは覇権国イギリスであったことを忘れてはならない。
 隣に「シルクセンター」がある。時間がないので入館はしないが重要施設だ。絹は初期横浜海外貿易における日本側輸出品の代表。関東甲信越全域から集荷された絹は鉄道で横浜に集められて海外に輸出された。絹こそは日本近代化を支える命綱であった。関東大震災後に神戸での絹輸出がなされるようになるまで横浜は絹貿易を独占して外貨を稼いだ。日本鉄道(初期の民間鉄道会社)の主要路線は関東甲信越の生糸を横浜に運ぶことを主目的に開設されたのだ。

 考えていたら時間が瞬く間に過ぎていた。あと10分。急ぎ新埠頭に戻る。
 午前10時40分発のシーバスに乗る。私が歴史散歩をする際のお題の1つがその地を代表する交通機関に乗ること。横浜の場合、それがシーバスだ。海から眺める横浜港は美しい。船に乗ると特徴ある建築物をランドマークという意味がよく判る。大桟橋を回り込んで「日本郵船氷川丸」横で降りる。日本郵船が1930年シアトル航路用に建造した貨客船だ。当時は最新鋭の船だった。戦争中は海軍特設病院船となり終戦までに3回も触雷したが沈没を免れた(信じられないことだ)。戦後は貨客船に戻り、1953年にシアトル航路に復帰した。船齢30年に達し第一線を退くまでに太平洋を254回も横断した。この間に運んだ船客数は2万5千余名に及ぶ。1960年に引退した後、1961年から山下公園前に係留保存され、2008年に「日本郵船氷川丸」としてリニューアルオープンした。戦前の日本で建造され、現存する唯ひとつの貨客船である。造船技術や客船の内装を伝える産業遺産として高く評価されている。2016年には重要文化財に指定された(ちなみに今回は時間の関係で足を運ばなかったが日本郵船歴史博物館は建物も展示物も素晴らしい)。氷川丸は運が良い船だ。私は運が良いものに触れることが好きである。触れていると自分の運も良くなる気がする。運が良い船と言えば旧日本海軍の戦艦「榛名」もそうだ。戦艦榛名は多くの海戦に参加したが奇跡的に沈まなかった。私の父は榛名で通信兵をしていた。榛名の運が良くなければ父の命は存在しなかった。父の運が良くなければ今の私は存在しなかった。偶然を司る神様に感謝。たぶん私は運が良い。
 「山下公園」は関東大震災の瓦礫で海を埋め立て昭和5(1930)年に開園したもの。現在では多くの花が植栽されており横浜を代表する市民の憩いの場となっている。「ホテルニューグランド」は敗戦後の占領を象徴する建物。占領初期にマッカーサーが滞在したことで著名である。厚木飛行場に降り立ったマッカーサーは神奈川県を足がかりにして日本全体の占領行政を行った。それゆえに神奈川県の接収は長く続いた(現在も残存している)。関内は「砂漠」と言われるほどに接収の後遺症に苦しんだ。現在の横浜の繁栄を見ていると、昭和30年代までの寂れた横浜のイメージが全く湧かないのだが「横浜の復興」とは意外と最近のことなのだ。

 ニューグランド西側の道を歩くと中華街(朝陽門)に着く。昔は南京町と言った。砂洲の内で最初期に干拓されたところである。本町通から注意して見渡すと少し下がっていることが判る。その高低差に砂洲と干拓地の高度差が表象されている。中華街の街区は他地区と約45度傾いている。華僑が住みだしてから傾いたのではない。角度が違うのは江戸時代からである(新田開発時期の違いによる)。何故、横浜神戸長崎などの開港地に中華街が形成されたのか?初期の西洋人は日本語が全く判らなかった。日本人は西洋の商慣習に習熟していなかった。そのために「西洋の商慣習に通じ日本人とも漢字で筆談できる華僑」が香港や上海などから大勢やってきて定住したのである(「チャイナタウン展・もうひとつの日本史」福岡市博物館を参照)。
 正午なので中華街は凄い人出だ。私は味にこだわる人間ではないので空いている店でさっさと中華そばを食べた。美味しい。南の朱雀門を出る。中村川にかかる橋を渡ると元町だ。元町は居留地に定められた地域に住んでいた住民が強制的に山手の麓に移住させられ、その住民たちが形成した街並み。住民は「自分たちこそが本来の横浜の住民だ」とのプライドをもって「元町」と名乗ったのであろう。この元町は山手に住む外国人御用達の店が並ぶ高級商店街として発展し、オシャレな感覚を全国に発信した。開港後、日本人の「外国人排斥」の意識は「外国人憧憬」の意識へと変わっていった。この極端な意識変化こそが日本人の特徴なのである。
 
 山手に向かう代官坂を上る。突如として目の前に変わった門構えが現れた。隙間を通して覗くとなんとプールがあった。「元町公園プール」という。
 坂を上ると雙葉学園の入り口だ。ちょっと脇道にそれる。井上章一他「ミッションスクールに何故美人が多いのか」(朝日新書)なる本がある。題名はあれだが、内容は真摯なもの。明治になって上流階級に浸透していったキリスト教文化の隠された歴史を読み解く。井上氏は僧侶ですら子供をキリスト教系の学校に入れていることに注意を喚起する。筑後でも仏教に縁のある蒲池法子(松田聖子)さんが久留米のミッションスクールで学んでいた。本書は、名著「美人論」の著者である井上氏を含む3人が「お嬢様学校」を巡る社会意識を分析した好著だ。上流階級へのキリスト教文化浸透に関しては避暑地軽井沢の果たした役割が大きいが(2021年5月1日「軽井沢1」参照)横浜・神戸を代表とする居留地キリスト教文化への憧れも見逃せない。「横浜開港と宣教師たち」に紹介されるヘボン(施療・辞書編纂・聖書翻訳)ブラウン(日中伝道)バラ(日本基督公会創設)ブラウン(新約聖書翻訳)ベンネット(横浜バプテスト神学校創設)キダー(フェリス女学院創設)ブライン他(横浜共立学園創設)カンヴァース(捜真女学校創設)ハジス(横浜英和女学校校長)などがその中心的役割を果たしたと言える。右手に有名な建物が並んでいる。山手234番館・山手聖公会・山手資料館・山手10番館。各々に固有の物語がある。この周辺の建物が明治時代から残されているように誤解する人がいるけれども初期建物の多くは関東大震災で倒壊した。建物の多くは昭和初期に再築されたものである。左手に外人墓地がある。事情が何であれ、異国の土に還られた方々の御冥福を祈る。

 正面に「みなとの見える公園」入口がある。この「公園」はイギリスとフランスの軍隊が駐屯していた場所だ。横浜は2度も外国軍隊の「駐留」を経験した。幕末維新期にイギリス・フランス軍が山手の一角に仲良く駐屯した(列強は競ってはいたものの共同目的達成のためには協調行動をとる・これが「連合国」の感覚だ)。大戦後の1945年からはアメリカ軍による接収が施行された。2度の軍事駐留が「横浜の光と影」を形成している。「明治維新期の横浜英仏駐屯軍」「明治維新と横浜居留地」によると英仏駐留軍の横浜山手への駐留は文久3(1863)年から明治8(1875)年までの約12年間に及ぶ。「外国の軍隊が国内に駐留する」異常な状態を日本人はこのとき初めて経験した。その引き金になったのが前回言及した生麦事件(文久2年8月21日・1862年9月14日)である。自国民保護の大義名分により英仏は軍隊を送り込んだ。それは多くの国において「植民地支配」の開始を告げる契機であった。上記12年の間に幕末維新期の大きな出来事が連続的に発生している。特に文久3(1863)年7月の薩英戦争と元治元(1864)年8月の下関戦争が重要だ。両戦争において横浜は兵站基地の役割を果たした(武器と人員は横浜から送り込まれた)。ヨーロッパ諸国の軍事力を目の当たりにした薩長両藩は「攘夷」の不可能性を認識し事後の行動を変えた。歴史を読み解くためには軍事的プレゼンスの意義を重視すべきである。今の「日本史」の記述は国内目線に偏り過ぎている(斜に構えて言えば「世界史」だって大航海時代以降にヨーロッパ中心主義の下で形成された特殊な世界観だ)。ただし外的視点を偏重して内的視点を歪曲するのも完全に間違っている(最近はこういう極端な見解も目立つ)。重要なのは両者のバランスである。そんなことを考えながらフランス山の急斜面を降りて谷戸橋を渡る。

 横浜高速鉄道みなとみらい線の元町中華街駅で乗車し馬車道駅で降りる。早朝の散歩でスルーしていた「県立歴史博物館」に入る。入口は馬車道側ではなく反対側。正直な処、建物内の展示にはあまり興味がなくて建物自体をじっくり拝見したいのだが順路がそのように設定されていない。内心不満であった。馬車道側から入る「建物自体をじっくり観察したい方」コースを是非とも設けてもらいたい。これほど重厚感のある建物はそう存在しない。馬車道先端まで歩き喫茶店で一服する。
 最後に吉田橋を抜けて反対方向の伊勢佐木町を観察することにした。戦前の伊勢佐木町3丁目はデパート・映画館・劇場・寄席・見世物小屋が集まる繁華街であった。東京浅草・大阪千日前・京都京極に匹敵する祝祭空間だった。が戦後に商業的中心が現在の横浜駅周辺に移ったのに伴い、普通の街へ変貌している。街の性格変化は戦時中の空襲と戦後の関内接収によるところが大きい。昨日から歩き続けているので服が若干湿っぽくなってきた。ユニクロに入店し安い服を購入。横須賀ではこの服を着ることにしよう。伊勢佐木町も5丁目あたりまでは店舗も多く人も多いが6丁目から寂れていると言わざるを得ない。昔、この辺りは風俗街の雰囲気が強かったようだ。しかし今はかような気配は全く無い。私は還暦近いのであるが「伊勢佐木町ブルース」(@青江三奈)を口ずさむ程の年齢ではない。暗くなってきた。マイステイズホテル近くの洋食店に入る。ビールとオードブルだけの軽い夕食を取ってホテルに帰還。「横浜」歴史散歩はこれでおしまい。(「横須賀」歴史散歩に続く)