■2021年01月04日(Mon) ちょっと寄り道(奈良歴史散歩2)
 奈良歴史散歩2日目。春日大社と東大寺東側と平城京跡歴史公園周辺を散歩しています。「ホテル尾花」の近くに位置する「ならまち」も少し歩いてみました。
参考文献 島田裕己「二十二社」(幻冬舎新書)、新版古寺巡礼「東大寺」淡交社、吉川真司「聖武天皇と仏都平城京」講談社学術文庫、館野和己「古代都市平城京の世界」山川出版社、倉本一宏「藤原氏・権力中枢の一族」中公新書、高島正人「藤原不比等」吉川弘文館、渡邊晃宏「平城京と木簡の世紀」講談社学術文庫、宮本長二郎「日本人はどのように建造物を作ってきたか・平城京」草思社、奈良女子大学文学部「大学的奈良ガイド・こだわりの歩き方」昭和堂など。

 2日目の朝だ。朝食をとりワシントンホテルを出発する。三条通りを東進し、猿沢池の南に回る。ここから見る五重の塔は奈良を代表する風景だ。2日目の宿「ホテル尾花」へ到着する。チェックイン時刻前なのでフロントに荷物を預けた。事前に調べたところでは昔この場所は芝居小屋だったそうだ。食堂には当時の芝居小屋の扁額が挙げられていると聞く。これは3日目朝に詳しく述べることになるだろう。五十段階段を上って三条通りに戻る。今では親しく感じられる「菊水楼」の建物を右手に観ながら、一乃鳥居をくぐり東に向かって歩く。
 左手の奈良国立博物館敷地内に礎石が設けられた一角がある。春日社の東西両塔跡である。西塔は永久4(1116)年に藤原忠実、東塔は保延6(1140)年に鳥羽上皇の発願で建立された。両塔は治承4(1180)年、平重衡の南都焼き討ちにより焼失している。読者の中には「神社なのに塔があったの?」といぶかしい感じを抱く人がいるかもしれないが、神仏習合では神社に塔があっても不思議ではない。両塔は鎌倉時代の春日曼陀羅図にも描かれている。仏教と仲良く共存した往時の「春日明神」の姿を想像しよう(なお春日明神や春日権現は神仏習合下の呼び名なので現在の春日大社のパンフレットや説明文には絶対に使われない)。
 結構な距離を春日山に向かい歩いてゆく。辺りには大量の鹿が戯れている。古くから奈良には「鹿は春日明神の使いである」という信仰があった。春日大社の第一神は茨城県の鹿島神宮から迎えられた神であるが「迎える際に神を守り導いたのが鹿である」という伝承があるからである。高校生時代に私は春日大社に来ている。鹿しか記憶がない。もちろん私には鹿に対する信仰心なんぞ全く無いので鹿せんべいを買ってエサやりなどして鹿と親交しようなどとは思わない。私は動物が怖いのだ(子供の頃犬に咬まれたことに由来)。目を合わさないように通り過ぎる。鹿となれなれしく戯れている人が信じられない。当然のことながら私は鹿をシカトする。

 参道は大きく右(南)側にカーブする。二乃鳥居からの登り参道に異様な数の常夜灯が並んでいる。奈良駅が春日社参道の始点であり、駅には参道入口を示す常夜灯が設置されていたことを想起しよう。奈良は全体として「春日社興福寺の門前郷」なのであった。では春日社とは何か?春日社は和銅3(710)年、藤原不比等が、興福寺とともに「藤原の氏神」として創建した社である(異説もある)。社殿背後に三笠山(春日山)がある。三笠山に月が上がっている構図が「春日曼荼羅」の代表的なものである。他に聖なる鹿が図案化されている「春日鹿曼荼羅」や月の中に多数の仏像が並んでいる「本地仏曼荼羅」もある。この時代において神仏は「敵対し排斥するもの」ではなく「仲良く折り合うもの」だったのである。
 春日社は藤原氏の氏神であり藤原氏の権威を裏打ちするものであった。だからこそ貴族や武家たちの多くが春日社興福寺に寄進をしてきた。平城京に住む者は、高台にある興福寺とその奥に鎮座する春日社を見上げてきた。その奥に連なる三笠山とその上の月を眺めてきた。奈良は政治的な顔色さえ「東向き」だった。かような装置を生み出した藤原不比等という人物は天才であろう。その故にこそ藤原氏は1300年以上日本社会を牛耳ってきたのだ。不比等が基礎を作った律令体制と人事支配は武士の世においても根本的に消滅させられることがなかった。だからこそ明治政府はこの律令体制を「本格的に復活させる」という復古政策を採ったのである。
 ただし春日社創建にかかわる以上の記述は宗教的規範ではない。春日大社の公式見解は違っている。島田裕己「二十二社」(幻冬舎新書)によると春日大社ホームページにこう記されていた。「春日大社は今からおよそ1300年前、奈良に都が出来た頃、日本国の繁栄と国民の幸せを願って、遠く茨木県鹿島から武甕槌命タケミカヅチノミコト様を神山御蓋山ミカサヤマ(春日山)山頂浮雲峰にお迎えしました。やがて天平文化華やかな神護景雲2(768)年11月9日、称徳天皇の勅命により左大臣藤原永手によって中腹となる今の地に壮麗な社殿を造営して、千葉県香取から経津主命フツヌシノミコト様・大阪府牧岡から天児屋根命アメノコヤネノミコト様・比売神ヒメガミ様の尊い神々様をお招きし、あわせてお祀り申し上げたのが当社の始まりです。」この説明に対して島田裕巳氏は疑問を提示する。「この説明だと大社を創建したのは称徳天皇になる。しかもこれに続く部分で春日大社の祭神は『春日皇大神』と呼ばれている。皇大神であるということは春日社は皇祖神ということになる。が、歴史的に春日社が春日皇大神と呼ばれたことはない。春日大明神などが一般的な呼び名だった。」島田説に共感する。現在の春日大社が、神仏習合の記憶を「負の歴史」として抹消したがっていることは直ぐに判る。たとえば春日大社本殿特別参拝者に配布されるリーフレットに武甕槌命は「最強の武神である」と記されている。「全国に分祀された約3000社に及ぶ春日の御分社、境内の約3000基もの燈籠は春日皇大神の篤い信仰の広がりを示している」とも記されている。ホームページで引用されているのが不比等ではなく称徳天皇であるのは何故なのか?称徳天皇は母が光明皇后(聖武天皇妃)であり、その父が藤原不比等である。現在の春日大社は「藤原氏の氏神」だった歴史的事実をも否認して「最強の武神」あるいは「皇大神」でありたいと考えているのであろうか?

 春日社本殿は参道を突きあたり北(左側)にある。古代の人は気の流れを意識し、気が直接に当る参道正面を避けたのである。奈良では「突き当たって左折し北へ」の感覚を意識しておく必要がある。本殿を参拝する前に反対(南)側にある若宮を参拝する。ここは「若宮おん祭り」で著名である。餅飯殿通りに大宿所が設けられる。若宮は興福寺との良好な関係が現在でも続いていることで特筆される。社殿前に若宮大楠がある。神功皇后の手植え伝説があるほど古い(注:神功皇后は「三韓成敗」をしたという伝承の主であり応神天皇の母とされる)。「古木には神が宿る」というのが古代日本人の感性なのである。春日山原始林は三笠山の背後に広がる森林である。神域であり禁足地とされる。若宮と本殿の間に「本宮神林遥拝所」という一角があり、この地から背後に広がる三笠山と春日山原始林を観る(遥拝する)ことこそが神を感得することなのであった。この感性を前提にしないと、何故に東京において皇居や明治神宮に広大な「鎮守の森」が形成されたのかを理解できない。
 本殿に向かう。本殿回廊内に入るためには特別参拝料を納める必要がある。朱色の本殿建物に金色の灯篭がマッチして美しい。この光景に昔の人は確かに神を感じたのであろう。本殿横にも本社大杉と呼ばれる大木がある。樹齢千年と説明されている。この木にも神が宿ると感じられていた。裏に萬灯篭を再現した藤浪之屋という建物がある。多数の灯篭に火が灯された夜の様子を再現している。これを「美しい」と感じるか「怖い」と感じるかは人によるが、この「尋常ではない感じ」こそ春日社の聖性を高めるために不可欠の視覚的装置なのであった。
 奈良時代に遣唐使に選ばれて唐で出世した阿倍仲麻呂は異国でこう詠んだ。それは奈良で若き日を過ごしたエリート知識人の心象風景を見事に映し出していた。
     天の原 ふりさけみれば春日なる 三笠の山にいでし月かも
 後の日露戦争における連合艦隊旗艦が「三笠」と名付けられたのには理由がある。第2次大戦時における連合艦隊旗艦が「大和」と名付けられたのにも理由がある。海軍にとり藤原一族の氏神が鎮座する<大和の三笠山>はかくも崇敬すべきものなのであった。付言すれば京都を指す「山城」という名の戦艦もあったが、多くの日本人の心をとらえることは無かった。国家の命運をかける連合艦隊旗艦の名称は「三笠」と「大和」でなければならなかったのだ。

 北に向かって歩く。若草山の麓に土産物屋や旅館が並んでいる。コロナ禍で閉まっているところが多い(休業か・閉店か)。今、若草山麓に並ぶ多くの土産物屋さんや旅館まで足を運ぶ人は激減しているのであろう(涙)。
 歩いているうちに手向山八幡宮に着いた。この手向山八幡宮は紅葉の名所として知られる。古今和歌集には菅原道真の次の歌が収録されている。
     このたびは 幣もとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに
 手向山八幡宮は天平勝宝元年(749年)、東大寺及び大仏を建立するにあたって大分の宇佐八幡宮より東大寺守護神として勧請された。古事記に載っていない八幡神が知名度を得ることになり石清水・鶴岡・箱崎など多くの勧請を得た。当初は平城宮南の梨原宮に鎮座し、後に東大寺大仏殿南方の鏡池付近に移座したが、治承4年(1180年)平重衡による南都焼討により焼失した。建長2年(1250年)北条時頼が現在地に再建している。創建以来、東大寺の鎮守社とされてきたが神仏分離の嵐の中で東大寺から独立させられた。手向山八幡宮は東大寺転害門との関係が深いことでも知られている。八幡神は転害門を通って勧請されたと伝わる。そのため八幡宮の神輿は転害門が御旅所とされる。楼門の前に(正倉院に似た)校倉造りの2棟の建物がある。もとは八幡宮のものだが神仏分離により東大寺に帰属するようになった。
 直ぐ前に三月堂がある。正式には法華堂という。東大寺のなかで最も古い。ということは東大寺の当初の伽藍はかなり山寄りに形成されたことになる。昔、堂中には不空羂索観音を中心に梵天・帝釈天や四天王像が配されていた。それは小宇宙的世界を感じさせる仕掛けであった。が、現在、三月堂の国宝は「東大寺ミュージアム」に移され感銘を受けることが少ない。それを補うためか?須弥壇前に設けられた僧侶席に3名の僧侶が来られて般若心経を読経された。堂内に僧侶の声が響き渡った。主要仏像を失った三月堂が宗教的感銘を人々に与えるために僧侶の人声で補う試みはとても良いことだと私は思う。観音様も喜んでおられるように思えた。
 裏の二月堂に向かう。険しい崖の上に設けられた二月堂は「水」との関連が印象深い。裏には清い水が出る蛇口が設けられており、御接待をされる建物内には古い釜がある。崖の下にある小さな建物の中に「若狭井」という湧水があり、東大寺が建立される前から聖性を与えられていたようである。京都の清水寺と同様、清水の出る聖なる土地に観音菩薩信仰が習合して、伽藍が設けられたのが東大寺の出発点なのであろう。ちなみに湧水が出るのはこの地が断層崖であり、地下水が分断されて地表付近に出ることによって生じる現象のようである。
  二月堂の「お水とり」は天平勝宝4年(752)東大寺開山良弁僧正の高弟・実忠和尚が創始したものである。もとは人間が日常に犯している様々な過ちを二月堂の本尊である十一面観世音菩薩の前で懺悔する行為に由来するが、修二会が創始された当時は国家や民の為になされる宗教行事を意味した。この時代、天災や疫病や反乱は「国家の病気」と考えられた。この病気を取り除き鎮護国家・天下泰安・五穀豊穣を願う行事は重視されていた。東大寺の長い歴史の中で伽藍の大半が灰塵に帰したときですら修二会は「不退の行法」として1度も絶えることなく引き継がれてきたという。現在は3月1日から2週間にわたり行われている。もと旧暦2月1日から行われていたので、二月に修する法会という意味をこめて「修二会」と呼ばれるようになったとされている。当然ながら「二月堂」という名称はこの行事に由来している。
 ここから下ってゆく境内は高低差が激しい。南大門から大仏殿に至るラインは異常なほど平坦である。近鉄奈良駅から南大門をくぐり大仏殿に入る参拝者には境内の高低差が判らない仕掛けになっている。しかし転害門(西北)や二月堂三月堂(東北)から歩いてくると、高低差を強烈に感じる。逆に言うと、この高低差こそが本来の東大寺の自然なのだ。南大門から大仏殿までの参道の平坦さはそれが自然地形ではなく人工的に整地されたことを端的に物語る。古代国家の総力を結集して作られた空間は膨大な人数が集まることが想定されていた。予定された大仏も建築物も前代未聞の巨大なモノだった。それゆえに古代の技術者たちは徹底した基礎工事を行った。参道も明確かつ強固に作られた。その順路に従い参拝者が歩くように意識的に導線が設計されている。東大寺においては「南大門から入り・北を見上げ・回廊内に入り・大仏殿を拝む」という宗教的な視線が強固に維持されている。その導線に従っている限り、人工的に整地された不自然に疑問を抱くことは無いのである。

 南大門を出て登大路の坂を下る。東向き商店街で昼食。評判の釜揚げうどんを頂いた。午後は近鉄奈良駅からバスで平城京跡まで向かうことにしている。ぐるりんバスで100円。さすがは世界的な観光地だけあって訪問客に便利な仕組みが完備されている。バスは平城京跡歴史公園に行く途中で奈良市役所前を通る。この奈良市役所は元々はホテル「尾花」の斜め前にあったのだが、奈良市の人口構成が大きく西側に動く中で(3日目に詳述)、昭和52年、現在地に移転されたものである。
 市役所の西(平城京跡との間)に奈良市街地で最大の商業施設「ミ・ナーラ」がある。ここは長屋王邸跡として知られる。昭和61年から平成元年にかけて「そごうデパート」建設予定地として奈良文化財研究所による発掘調査が行われた。ところが昭和63年に奈良時代の貴族邸址が大量の木簡群とともに発見された。木簡の解読により、この邸こそ文献上の存在であった「長屋王」邸だと判明したものである。日本古代史上重要な発見であった。保存を求める声もあがったのだが否定され、商業施設建設が続行された。今、現地には説明版が設置されている。
 「続日本紀」神亀6(729)年2月の条に「左大臣正二位・長屋王、ひそかに佐道を学びて国家を傾けんと欲す」と記載されている。藤原不比等の三男・宇合が軍隊(六衛府)を率いて長屋王宅を取り囲み、その結果、2日後に長屋王は自殺したという。「皇族が謀反を企て失脚した」という大事件であるが、もちろん上記記載は政治的に形成された勝者正当化の記述である。真相は未だに闇のままだ。古代の天皇家は抗争が絶えなかった。裏で糸を引いていたのが藤原氏である。天皇の外戚であることにより自己の政治的立ち位置を確保する藤原氏にとって、天皇家の不満勢力(藤原の支配を快く思わない者)がいることはあってはならないことだった。藤原はこの種の皇族をつぶした。狡猾な政治工作もした。「長屋王の変」はその典型例。学問的には複数の観方があるようだが「暗い歴史」である。この遺跡が保存されなかったのは、平城京跡を観光の目玉にしたい奈良にとって(対外的にあまり知られたくない)「奈良の暗い歴史」を表象するものだったからではあるまいか?

 ぐるりんバスを降りる。平城京跡に来るのは2度目である(約20年ぶり)。ここが発掘調査されて現在の風景になるのはそう古いことではない。明治時代の地図によると周辺には農地が広がっている。平城京が首都であった時代の歴史は正史「続日本紀」が記述している。ゆえに平城京は「文献の中では」明瞭に感じられる存在であった。裏を返せば「文献の中でしか」感じられない存在だった。この平城京跡を復元する試みは江戸時代から始まっている。北浦定政は大和国条里制(古代の水田地割)研究を踏まえて嘉永5(1852)年に復元図を発表。古図・古文書・地名などを補足資料として用いた精度の高い内容で、今でも通用する水準という。関野貞は明治40(1907)年平城京の土壇から内裏や朝堂院などを復元した。これらを基礎にして棚田嘉十郎は平城京跡の保存運動に力を尽くした。その結果として大正11(1922)年に第2次大極殿と朝堂院推定地が国の特別史跡に指定された。保存運動に命を捧げた棚田嘉十郎は国鉄奈良駅前に「平城京大極殿跡」碑を建立し、平城京跡にも「平城京跡保存碑」を建立している。棚田が平城京跡歴史公園創立の立役者の1人であることは疑いようがない。しかしながら国特別史跡指定の前年に棚田は自ら命を絶っている。中田善明「小説棚田喜十郎」はその原因を「棚田にとって平城京跡の保存は『史蹟』としての保存ではなく聖武天皇を祭神とする『神宮』としての保存でなければならなかった」と推測している。「人の心」を推し量るのは難しい。
 戦後、保存の動きを加速したのは米軍キャンプ用道路工事だった。昭和29(1954)年、平城京の遺構が確認されたため、昭和34(1959)年に奈良国立文化財研究所の手によって本格的発掘が開始され今日に至っている。
 
 明治政府は「神武創業の初めに帰ること」を正当性の根拠とした。「国の原点」としての中央集権国家は奈良時代であった。平城京は「文献の中でしか感じられないもの」であってはならなかった。この強固な意図を引き継いで構築された現代の施設。それが平城京跡である。白村江敗戦後に国土防衛と中央集権化の必要性が自覚されて構築された律令体制は古代国家の完成形態である。この体制は首都においてだけ実現されたのではない。全国に配置された国府は首都奈良と直線的な古代官道で結ばれていた。官僚としての国司が地方に配置され、地方で得られた富が古代官道を通して奈良に運ばれた(ただし国防の最前線である九州の大宰府だけは例外であり九州の地方物資は大宰府に集められ大宰府で消費することが認められた・2017年9月2日「大宰府歴史散歩」を参照)。文明の配電盤である東大寺が「総国分寺」の意義を与えらて全国の国分寺に文明を配信した。奈良時代前期は未だ対外的な緊張感が高い時代だった(特に対朝鮮半島)。我々は奈良時代に対し無意識に「奈良の都は咲く花の匂うがごとく今盛りなり」という煌びやかなイメージを持つが当時の日本は史上稀な高度国防国家であった。であるからこそ明治政府は国民に対して「奈良時代への復帰意識」を高揚させたのだろう。朱雀門前広場に朱雀大路の幅が再現されている。今の高速道路に比較しても広すぎる道路である。支配者(その中心人物が藤原不比等)が相当に無理をして都を作ったことが伺われる。
 踏切を渡ると大極殿跡が見える。この踏切は近鉄線である。「特別史跡」の中を電車が走り抜ける奈良らしい風景。2010年は平城京に遷都されてから1300年目にあたり、これを記念した「平城遷都1300年祭」が開催された。メイン会場として平城宮跡が選ばれた。この平城宮跡を近鉄奈良線が横断しており会場を南北に分断した。そこで利便性向上のため歩行者専用の踏切が新設されたのだ。当初、平城宮跡会場でのイベント開催中のみ設置される予定であったが引き続き設置することが決まり、現在も維持されている。近鉄線を(奈良駅と同様)地下に埋めようという計画があるようだが私は反対である。近鉄がこの線を引いた大正3(1914)年頃この周辺は農地だった。だからこそ近鉄は安んじて路線計画を立て、当時の行政庁はこれを問題なく認可したのだ。奈良「近代史」を表象するものとして近鉄電車の踏切は維持されなければならないと思う。何故ならば踏切と電車こそが現実なのであり、整備されている歴史公園はテーマパークに過ぎないからである。平城京跡歴史公園は法華寺と大和西大寺駅間に広がった田んぼのほとんどを占める(買収に要した費用は幾らなのだろう?)。極めて乱暴に命題化すれば歴史は過去に対する現代の思惟が結晶された幻であるに過ぎない。それが実体化(そこから具体的な行動規範を導出すること)されて現実社会に適用されるとき、凄まじいほどの(悪い)政治効果を発揮し得ることは歴史そのものが実証している。現代社会に生きる私たちは歴史に対しクールな感覚を持っていたほうが良い、と私は考えている。「近鉄踏切よ、永遠に。」

 大極殿跡から東に10分ほど歩くと法華寺がある。旧藤原不比等邸である。それは内裏に藤原不比等の権力を見せつける装置であった。高台にある興福寺と春日社は諸人から明瞭に見えた。逆に言うと春日社興福寺は外京から都(平城京)を見下げていた。藤原不比等は自邸も内裏東に構え内裏を睨んだ。表向き「君子南面す」と言いつつ人々の視線は「東向き」なのだった。この藤原不比等邸は死後、娘である光明皇后(聖武天皇の妃)の手により寺院化され、女人のための「法華滅罪の寺」とされた。「総国分尼寺」という意味づけさえも与えられていた。名称は当然ながら「法華経」から取られている。「女性は救われない」とされていた従来の経に対して法華経は「女性を含む万人が悟りに至ることができる」旨説いた経典である(植木雅俊「法華経とは何か」中公新書、同「100分で名著・法華経」NHKを参照)。
 法華寺といえば何といっても十一面観音菩薩である。かつては秘仏とされ、代わりに前立像が設置されていたのだが、現在では実物が公開され拝見することが出来る。意外と小ぶりである。女性のための寺の「本尊」というに相応しい見事な仏像だ。法華寺境内で他に注目すべきなのは古代風呂があることである。現代的に言えば「サウナ」と表現できる。当時「風呂」とは蒸し風呂のことであった(これに対して水を焚き暖かくして入浴するのは「湯」という)。光明皇后は当時の都で蔓延していた病気(感染症)に心を痛めた。そのため悲田院・施薬院といった(現代風に言えば)福祉施設も設けている。「風呂」もその1つである。東大寺正倉院の宝物の中に「薬」が含まれているのもその象徴なのである(この点は3日目に触れることにしよう)。
 法華寺を出て東に向かって歩く。一条通りである。旧藤原不比等邸の前を貫く通りが一条通であること・その先に東大寺転害門があること。これは偶然ではない。おそらく一条通りの先に接するように転害門は作られ強い意味付けを与えられたのであろう。昨日述べたように転害門には「ここを通って八幡神が東大寺の大仏造営を手伝いに来た」という伝承が残る。しかしながら、リアルに考えて「八幡神は藤原不比等のメタファーだったのではないか?」との下衆の勘繰りを私は入れたくなる。そんな空想に浸れるのが歴史散歩の醍醐味である。

 右折して「新大宮」駅前の書店で買い物をする。ここから近鉄電車に乗る。電車は直ぐ地下に潜りこみ近鉄奈良駅に着く。東向き商店街を通り三条通りに出る。左折すると興福寺下に江戸時代の札ノ辻跡と明治期の道路原標がある。この場所が近世及び近代奈良の中心であったことが視覚化されていてとても面白い。
 「ホテル尾花」に戻るにはまだ時間があるので少しならまちを散歩する。ならまちは俗化が進んでいない。いわば時代に取り残された街だ。それを逆手にとって古いものを古いままで残してくれている街並みに私は敬意を表する。ならまちは「辻子」と呼ばれる小道が散見される。昔、この周辺は正方形の区画だったが、内部を高度利用するために短冊形に街区を貫くように後から開発されていった小道である。辻子は建久8(1197)年に初見とされる。均衡のとれた低い街並みが広がる。高度成長期やバブル期の乱開発を免れた古い家に残る格子窓が美しい。
 元興寺へ向かう。飛鳥から移された「官寺」である。ならまちは全体が元興寺(飛鳥寺)の境内であったと表現できる。官寺という強みは律令体制の崩壊とともに弱みになっていった。元興寺は荘園の獲得合戦に参入する実力がなかったので興福寺郷に吸収されてしまった。現在の元興寺本堂(極楽坊)は奈良の世界遺産を構成する1つである。飛鳥法興寺から移築された際の「日本で一番古い」といわれる古瓦が今も屋根に残っている。左手の奥から振り返って見えるところだ。時代の違う瓦が無造作に用いられているからか、色の違った屋根になっていて面白い。
 ならまちには色街の名残がある。その風情は明日の朝に若干触れることにしよう。東向き商店街にて夕食を取り、歩いて「ホテル尾花」に帰る。(続く)

* 島田裕巳「疾病VS神」(中公新書ラクレ)に次の指摘があります。
  このとき(天平9年)の疾病(天然痘)は「鬼病」と呼ばれた。鬼病は猛威を振るい、平城京に甚大な被害を与えた。今日で言えば内閣の大臣に当る議政官の内5名が鬼病によって亡くなってしまう。参議の藤原房前が天平9年4月17日に亡くなり、6月23日には中納言多治比県守が、7月13日には参議藤原麻呂が、同月25日には右大臣だった藤原武智麻呂が、8月5日には参議藤原宇合が続けざまに亡くなっている。参議は2名を残すだけになった。このうち藤原武智麻呂・房前・宇合・麻呂は藤原不比等の子供であった。(中略)聖武天皇は藤原不比等の長女である宮子を母としていた。したがって天皇は叔父らを次々と失ったことになる。天皇は物資湯薬の支給・租税の免除・大赦・神仏への祈願などを行わせた。そして天平9年10月には平城京南苑で長屋王の子である安宿王・黄文王・円方女王・紀女王・忍海部女王に叙位を行っている。このとき長屋王以外の子は対象になっていないので長屋王の祟りを鎮めることが目的であったと考えられる。(90頁)