■2021年06月02日(Wed) ちょっと寄り道(軽井沢歴史散歩2)
 軽井沢歴史散歩2日目は南軽井沢と追分を回りました。堀辰雄と追分宿との関係についても「聖・俗」をキーワードにしつつ若干こだわって言語化してみました。
(参考文献:別冊宝島「連合赤軍事件50年目の真相」宝島文庫、「軽井沢の歴史」軽井沢新聞社、朝吹登水子「私の軽井沢物語」文化出版局、桐山秀樹他「軽井沢という聖地」NTT出版、軽井沢町観光経済課「軽井沢案内2021」、テレビさいたま他「中山道 風の旅 軽井沢−馬籠編」、堀多恵子「来し方の記・辰雄の思い出」花曜社、堀辰雄文学記念館「展示図録」軽井沢町など)

 2日目の朝だ。良く眠れた。やはり和風旅館は良い。朝食前に軽く散歩する。朝のショー記念堂付近は清々しくて良い感じだ。「水車の道」を通りカトリック教会付近まで行き、本通りを歩いて「つるや」に戻る。朝風呂に入り朝食の時間。食堂は私以外に2・3組しか客がいない。まだ寒い時期だしコロナ禍なので仕方がないだろう。夕食が軽い分、私は朝食をしっかりとることにしている。チェックアウトを済ませて「つるや」を出る。中山道を歩いて行こうかと思ったが、荷物もあるのでタクシーを呼んでもらい2日目の「ホテルサイプレス」に向かう。ロータリーを通り過ぎ、六本辻を左折してサイプレスに到着した。チェックイン時刻前なのでフロントに荷物を預けて駅に向かって歩き始める。通りに面した公園は「西野澤公園」と呼ばれている。この周辺を野澤源次郎が開発したことによる命名である。

 軽井沢駅に到着。今日は軽井沢の南と西を歩く。2日目の方針は揺れ動いた。当初「あさま山荘」を朝一番に観に行く予定だった。駅から遠いのでタクシーを使う予定だった。が、別冊宝島「連合赤軍事件・50年目の真相」(宝島文庫)の次の記述を読み私は驚愕した。>観光地になりかけた浅間山荘:あさま山荘は事件後売却され、アートギャラリーとなったが、2008年に香港企業(中国名の日本法人)によって買い取られた。時代的におおらかだった昭和の終わり頃まで、観光バスが勝手に入り込み「見学スポット」にしていたことなどもあったという。付近の住民の1人は次のように証言している「昔はけっこうバスが入り込んできて、バスガイドが『あちらに見えるのがあさま山荘でございます』なんてやってたんだよ。あとね軽井沢駅前からタクシーに乗って観に行く人なんかも結構いた。歩きだと遠いし別荘地は凄く広くて何も知らない人だとまずたどり着けないからね」。しかし平成に入って以降周辺住民から苦情が出たこともあって別荘管理事務所は「見学」を一切拒否するようになり、周辺各タクシー会社に対しても「山荘見学者を乗せないよう」申し入れが為されている。近年はネットで情報を得て自家用車で訪れる若者も増えているとのことだが、事務所側では終日パトロールを行っており、見学者を発見した際は早急に退去するよう促している(22頁以下)。子ども時代の脳裏に焼き付いている連合赤軍事件の現場周辺の雰囲気は感じ取っておきたいが周辺住民の迷惑にはなりたくない。調べると軽井沢には町内循環バスがあり、南路線で「レイクニュータウン」方面に行けることが判った。その1つ手前には「治安の礎(ちあんのいしづえ)」という凄い名前のバス停もある。が、このバスは1日に6本しか出ていない。私は来たバスによって散歩の方向性を決めることにした。10分後に来たバスは急行「タリアセン」行であった。この行先だと南方面には行かない。残念だが、決めた方針に従うことにする。

 バスは軽井沢駅を出ると通りを西に向かい陸橋を渡って南に向かう。しばらく走ると塩沢湖に到着。バス停の目前にあるのが総合観光施設「タリアセン」だ(建築家のフランク・ロイド・ライトがつくった理想郷の名前)。塩沢湖を中心に広がる施設で約10万平方メートルの敷地に軽井沢に所縁のある建築遺産が点在している。町長の藤巻進氏が推進した。文化的価値が高く、軽井沢の「明治村」(@愛知県犬山市)と評価することができる施設である。入場してまず向かったのが旧朝吹別荘「睡鳩荘」だ。ヴォーリスの設計・昭和6年築。もとは二手橋北の矢ケ崎川沿いに建っていた。朝吹常吉は英国留学を経て三井物産ニューヨーク支店に勤務した俊英(後に三越の社長)。洋式生活を身に付けたために大正時代から夏は軽井沢で過ごす生活を続けていた。ヴォーリスと交流があり、大正13年に東京高輪の自宅設計を依頼し昭和6年に別荘設計を依頼している。長女の朝吹登水子は著名なフランス文学者。その著作「私の軽井沢物語」(文化出版局)は大正昭和初期のセレブが軽井沢で如何に優雅で文化的な生活を送っていたかを詳細に物語る良書である。掲載されている豊富な写真をみると、それが同時代の庶民生活と如何にかけ離れたものであったのかが良く判る。当時の睡鳩荘の写真も含まれており、大型暖炉が設置されたサロンや豪華な食堂、そして大型のベランダでくつろぐ筆者の姿などの写真も収録されている。これらを頭に入れて目前の建物を見学すると感慨が深い。次に向かったのが「ペイネ美術館」。フランス人画家ヘイモン・ペイネの作品を中心にした美術館で、建築家アントニン・レーモンドが昭和8年に別荘として設計したものである。建築家が自分用に造ったものであるから、かなり凝った(変わった)形をしている。「郵便局」は明治44年に建てられ平成8年に移築されたものである。旧軽中央(観光会館の場所)にあった。昔は軽井沢本通りのランドマーク的存在であったという。道を挟んで存在するのが「軽井沢高原文庫」。敷地外側(タリアセン側)に有島武郎別荘「浄月庵」が移設されている。白樺派の中心的作家として活躍した有島は大正12(1923)年に婦人公論記者である波多野秋子と知り合い恋愛感情を抱く。これが秋子の夫に知られることになり、有島は脅迫を受けて苦しむ。挙句、同年6月9日、2人は三笠ホテル近くにあった有島別荘で心中した。その現場となったのがこの建物なのだ。ちょっと怖い。高原文庫の目玉は「堀辰雄別荘」だ。堀辰雄がアメリカ人スミス氏から昭和16年に購入した4番目の家だ(通称1412の家)。いかにもアメリカ人が好きそうな野趣あふれる造りだ。堀辰雄が愛したのも良く判る気がする。

 塩沢湖バス停からはあまりバスが出ていない。なので私は南側にある「風越総合運動公園」へ歩いて向った。軽井沢町民のための総合運動施設である。バス停近くには夏(1964東京)と冬(1998長野)のオリンピック記念碑がある。1964年夏季オリンピックの主たる競技場は当然ながら東京だったが、総合馬術競技が軽井沢で開催された。東京から近く気候と地質の良さが決め手だった。1998年、長野が冬季オリンピック開催地となった。このとき軽井沢はカーリング競技の会場となっている。軽井沢は「夏季冬季の両オリンピックが開催された日本で唯一の町」なのだ。認識が全く無かった私は「へー、そうなんだ」と驚いた。
 軽井沢がスポーツの町たる色彩を強めたのは戦前の避暑客が愛したテニスと馬術の影響だが、本格化するのは戦後。昭和27年、冬の観光客を誘致する目的で町内5か所にスケートリンクが開設された。世界スピードスケート選手権や全日本スケート・国体スケート競技会などが招致された。「冬の軽井沢」の演出は行政・民間の努力の賜物だった。その結果、早くも昭和38年には約50万人ものスケート客が軽井沢を訪れた。こうして軽井沢は「年間を通じてのスポーツの町」となったのである。

 来るバスが南回り「軽井沢駅」行きであることを私は願う。風越総合運動公園のバス停で待つこと約20分。しかしながら、やってきたバスは「中軽井沢駅」行きであった。この路線はレイクニュータウンを通らない。どうも私は「あさま山荘」に縁がないらしい。バスに乗り込んでため息をつく。ガラス越しに辺りを見物する。農地が広がっている。軽井沢も中心部から離れた南部は普通の信州の田舎である。
 中軽井沢駅に到着。黒塗りの現代的な駅舎だ。国鉄的な牧歌的雰囲気は皆無。沓掛は旧あさま三宿(軽井沢・沓掛・追分)の中で最も宿場らしさが残っていない処だ。行政上の地名も「中軽井沢」になっており住民が「くつかけ」という名称そのものを抹消したがっているように感じられる。沓掛駅が中軽井沢駅に改称されたのは昭和31年。これは西武デパート軽井沢店が開業をした年でもある。中軽井沢は北部に拡がる千ヶ滝地区への入口だ。西部(西武)軽井沢の拠点であるとも言える。大正7(1918)年、堤康次郎は沓掛区有林である千ガ滝約60万坪を買収した(実測80万坪)。大正4年6月、26歳の堤が早大の学生服姿で沓掛村に出向き、村長に村有地の購入を打診したのが始まりという。村民の議論は2年も続き、大正6年12月の区民総会で了承を経て買収に成功。それから道路・水道・電気などを整備し、翌年から裕福な庶民向けに分譲を開始した。大正14年の国立学園都市(2018年7月2日「国立歴史散歩)に先立つものである。堤の土地開発には批判も多い。堤は軽井沢のインフレーションを招いた。千ヶ滝地区だけではない。駅南のショッピングモール・スキー場・レイクニュータウンも西武系資本の開発による。アメリカ的娯楽施設は明治から昭和初期まで宣教師たちが育ててきた清貧な価値観と対立する。桐山秀樹「軽井沢という聖地」は西武の不動産開発を「光の面」と「影の面」双方から良く描き出している(当然ながら「影の面」のほうが興味深い)。

 駅前でタクシーを拾って追分宿へ向かう。私は運転手さんに「追分郷土歴史館」に行きたいと告げた。直ぐ了解してもらえた。車中から道路の様子を見学する。現在、中山道は広い国道18号線になっている。しかし追分宿直前で狭い旧道(右)と広いバイパスに分かれる。狭い旧道に面して「追分郷土歴史館」と書かれた標識がある。ここでタクシーを降りた。この追分郷土歴史館は昭和60(1985)年に開設された。中山道の歴史・浅間三宿の説明村人の生活・文学の里としての特色などを豊富な資料で展示している。一見の価値がある。隣接する浅間神社には芭蕉の句碑がある。 「ふきとばす 石は浅間の 野分かな」
 旧中山道を西に向かって歩く。古い宿場の風情を感じさせる良い道である。辺りには多くの大学の夏季宿舎が存在する。歩いて気付いただけでも早稲田大学・東京女子大学・青山学院大学・東洋英和女学院などが目に入った。旧街道筋北側には「文学の散歩道」という名の小道も存在する。追分宿は文化的な香りが強いところだ。周辺は今でも俗化が進んでいない。「堀辰雄記念館」は堀辰雄を慕う人にとって「聖地」というべき場所である。堀辰雄が昭和26年7月から亡くなる同28年5月まで居住した旧宅を中心にして、展示室(辰雄の死後に多恵夫人が建てて夏を過ごした家)書庫(辰雄が亡くなる10日ほど前に完成した)管理棟(受付と展示がなされる)で構成される。私は展示品の「多恵」と「多恵子」の入り混じった記述に疑問を持った。職員さんに伺ったところ「多恵」が戸籍上の名だが辰雄が彼女を「多恵子」と呼んでいたので、ペンネームとして「多恵子」と名乗ったということらしい。

 堀辰雄の主著「風立ちぬ」について考えてみよう。多恵子にとって「風立ちぬ」は夫が婚約していた女性が亡くなり、その女性との思い出を契機として作られた作品である。これが逆だったら?夫にとり「妻が婚約していた男性が亡くなり、その男性との思い出を中核に作られた作品」がヒットしたら夫は耐えられるだろうか?私は男として「耐えられない」と判断する。男は観念的な動物であり、作品の中の死んだ男に対して引け目を感じてしまうだろうからである。実際、男は(特に若い頃は)小説で描かれた観念的な作品世界に入り込んでしまいがちである。私も20歳の頃は(若気の至りで)小説に描かれた物語を「聖」なるものと感じ、目の前の生活を「俗」なるものとして毛嫌いした。しかし(クールな言い方をすれば)作家と生計を共にする妻にとり、夫が作り出す小説は売れなければ困る「商品」だ。妻にとって目の前の現実こそが全てである。堀辰雄が「風たちぬ」で描く節子との美しい時間は彼が脳内で形成したフィクションに過ぎない(多少の事実を基礎にしていたとしても)。他方で、多恵子が「来し方の記」で描く辰雄との時間は現実である。今の私は現実の時こそが「聖」なるものだと感じている。多恵子は結婚をする前に辰雄に手紙を書いている。「文学に就いてお話をすることはできなくとも良き世話女房になることはきっとなれますけれど。少し自信がありすぎますかしら」(展示品から引用)。作家にはこのような腹の座った感じの女房が適任なのだろう(漱石の妻境子もそうだった)。
 「風立ちぬ」終章「死のかげの谷」は「序曲」「春」「風たちぬ」「冬」とは少し時間をおいて執筆された。旧軽井沢の川端康成別荘において昭和12年に執筆されたという。「現在」感覚の強い従前の章とは異なり終章は明確に「過去」形で書かれている。この終章を書くことによって堀辰雄は早逝した婚約者との思い出を作品に昇華させ、現実の結婚相手である多恵子と「未来」の生活に向かって歩き出すことが出来た。その瞬間を堀辰雄は「風が立つ」という言葉で表現した。その決意の言葉こそが「いざ、生きめやも」なのであった(さあ、生きよう)。堀辰雄が生きる決意を固めて「生活の場」として選んだのは追分だった。昭和に入り旧軽井沢が既に<俗>化の兆候を見せ始めていたのだろうと私は推測する。辰雄はこれを嫌った。堀辰雄は死のかげを感じる旧軽井沢ではなく「美しい村」のままであり続けている<聖>なる追分村に最後の自分の生命を預けようと欲したのではなかろうか。

 隣にある蕎麦屋「ささくら」で遅い昼食をとる。定番信州蕎麦が美味しい。前にあるのが「油屋記念館」だ。自宅を購入するまで堀辰雄が定宿にしていたという。軽く見学し北国街道と中山道の「追分」(分かれ道)に向かう。昔は国道との接点付近に枡形があったようだ。その先に「追分の分去れ」という常夜灯の設置された一角がある。主要道における「分岐点」だ。感銘を受ける。交通量が多い国道を渡ると中山道沿いに「ミニチュア中山道」がある。江戸の日本橋を出発し京都に至るまでの風景が盆栽的に作られている。その先に狩人が歌う「コスモス街道」の歌碑がある。「右は越後へ行く北の道 左は木曽まで行く中山道 続いてる〜コスモスの道が」子どもの頃に流行ったこの歌は信濃追分を歌ったものであった。当時は認識が無かった。

 帰路に着く。追分宿から駅まで下る古道があるが当時は気付かなかった。はるか東の信号まで歩いてゆく。「標高1003m」という道路標識が目立つ。交差点を右折する。この道路は最近できた道のようで両脇には現代的な別荘が数多く並んでいる。この別荘地は自動車を持つことを前提にした広い通路を有している。旧軽井沢の最古の別荘地「アタゴレーン」よりも使い勝手ははるかに良さそうである。地図では良く判らないが、結構な下り坂である。30分ほど歩いて「信濃追分駅」に着く。この駅舎は「国鉄」そのものだ。分割民営化の後、JRは古いものを切り捨てることに邁進した。これに対し、しなの電鉄は私鉄だが国鉄の色彩を強く残している。軽井沢駅行きの列車が到着。この列車も国鉄そのものだ。昔の「国鉄」は今の「私鉄」に残っていたのである。昔を感じさせる「国鉄型列車の旅」を楽しめた。
 「しなの電鉄軽井沢駅」に着く。ホーム脇に碓水峠で活躍したEC40型EL(アプト式初代電気機関車)とEF63(粘着運転時の主力電気機関車)が展示されている。木造の駅舎は旧国鉄軽井沢駅を移築したものだ。歩いてサイプレス方面に戻る。夕食まで時間があるので「軽井沢書店」に赴いた。これがサイプレスに宿を取った理由の1つ。軽井沢は書店が少ないと情報を得ていた。だからこそ近くに書店があるホテルサイプレスが絶好だったのである(もう1つはホテルなのに大浴場が存在すること)。30分ほど立ち読みして軽井沢ならではの書籍を数冊購入することが出来た。大満足。サイプレスに帰る。荷物は既に部屋に運ばれていた。広い大浴場を堪能した後、ラウンジで軽い夕食をとる。日日是好日。