■2021年07月01日(Thu) ちょっと寄り道(軽井沢歴史散歩3)
 3日目は横川と碓氷峠を歩きます。最後にちょっと意外な展開がありました。
参考文献:テレビ埼玉群馬テレビ「中山道 風の旅 日本橋-碓氷峠編」さきたま出版会、旅と鉄道編集部「廃線探訪入門」旅鉄ブックス、清水昇「碓氷峠を超えたアプト式鉄道」交通新聞社、「旧碓氷峠鉄道施設ガイドブック」安中市教育委員会、NHK「ブラタモリbS」角川書店、佐々淳行「連合赤軍『あさま山荘』事件」文春文庫、久能靖「連合赤軍浅間山荘事件の真実」河出文庫

 3日目の朝だ。午前4時頃には目が覚めた。私は洋風ホテルのベッドでは良く眠ることが出来ないのだ。明るくなるのを待ってサイプレス周辺を散歩する。品の良い別荘が多数並んでいる。幾らのお金が注ぎ込まれているのであろうか?
 ホテルに戻って朝風呂に入る。大浴場があるのは有り難い。身体が目覚めた。朝食後、歩いて駅に向かう。通りには多くの不動産業者の店舗が並んでいる。不動産業は軽井沢の主力産業なのだ。今朝はJRバスで横川駅まで向かう。これは新幹線開業に伴い横軽路線が廃止された際に設置された代替バスである。出発まで時間があるので軽井沢駅の構内を観察する。在来線東側で横川方面の線路が寸断されている様子が見える。使われなくなったホームも放置されている。旧国鉄に郷愁を持つ者として寂しさを感じざるを得ない。レイクニュータウン方面に行く南循環バスは1番乗り場から出る。横川行きJRバスは中程にある5番乗り場だ。「あさま山荘」に心残りがある私は5番乗り場から静かに1番乗り場を見つめていた。
 午前10時10分発の横川駅行きバスが来た。片道520円。バスは大通りを西に向かい左折してアンダーパスをくぐる。道路の右にゴルフ場・左に西武系資本が設営する巨大ショッピングモール「プリンスショッピングプラザ」と「プリンスホテルスキー場」が見える。交差点を左折し軽井沢バイパスに入る。最初は上りだが直ぐ峠で後は一貫して下り坂だ。妙義山の異様な山容が現れる。「昭和47年に連合赤軍の幹部(森恒夫・永田洋子など)が逮捕された場所は妙義山だったな」などと遠い記憶が蘇る。知らない方のために解説しておくと「連合赤軍」とは赤軍派(キューバの指導者チェ・ゲバラを師と仰ぎ世界同時革命を唱える)と京浜安保共闘(毛沢東を信奉し一国革命を唱える)が手を結んだゲリラ組織である(@久能靖)。
 バスに揺られて約35分。横川駅のバス発着所に到着した。横川駅は本来は信越線の途中駅だったが、横軽区間が廃止されて以降は終着駅となっている。廃止された線路の跡に設けられているのがバス発着所だ。目前に「碓井峠鉄道文化むら」がある。「鉄道マニアの聖地」とされる。入場して直ぐ右にあるトロッコ列車乗場に向かう。今日の第1目的は「メガネ橋」(第3橋梁)まで歩くことだからである。

 最初に碓氷峠越えの歴史から語る。横川から軽井沢まで鉄道を通すのは大変なことであった。横軽の距離は11・2キロメートルだが標高差は552メートル。66・7パーミルの傾斜だ。列車にとっては想像を絶する傾斜。この峠を鉄道はどのようにして超えたのか?3つの時代に分かれる。アプト式時代(旧線1893〜1963・70年間)・粘着運転時代(新線1963〜1997・34年間)・北に地下ループする時代(新幹線1997〜)。この変化の背景にはオリンピックがあった。新線の開通は東京オリンピック(1964)新幹線開通は長野オリンピック(1998)の各前年である。オリンピックは国土改造の「錦の御旗」なのであった。
 明治時代、横軽に鉄道を通すにあたっては多くの議論が戦わされた。迂回案もあったが費用がかかり過ぎるるため採用されなかった。選ばれた道は「挑戦」。明治の技術者は「アプト式」を採用することで克服した。アプト式とはドイツのハルツ山鉄道で採用されていた特殊な方式で、レールの中央にラックレールを設け、機関車の車軸中央に取り付けたピニオンと噛ませて走らせるものである。「アプト商会」に発注されたため「アプト式」と命名された。横軽区間に26のトンネルと18の橋梁が設置された。主たる工事を担当したのが鹿島組だ。初期は蒸気機関車を使ったため横軽の所要時間は約80分であった(平均時速は8ないし9キロ程度)。
 現在、熊ノ平に至る「アプトの道」は2つに分かれる。峠の湯までの「複線時代の路」と峠の湯より先の「単線時代の路」である。前者は歩道とトロッコ列車が並行している。体力を温存したい人はトロッコ乗車をお勧めする(左がトロッコ・右が遊歩道)。後者は歩くしかない。真の「アプトの道」と呼べるのは後者である。

 「トロッコ列車」の動力車は後部に設置される。後ろから押す碓氷峠独自のスタイルである。文化むらを出たトロッコ列車はまもなく右に曲がる。ほぼ真っ直ぐな線路が約1・6キロ続いている。マニアから「丸山ストレート」と呼ばれている箇所である。勾配は30パーミルで比較的緩やかである(故に、このルートは粘着運転時代もそのまま踏襲されている)。まもなくレンガ造りの大型建造物が見えてくる。「丸山変電所」である。明治44年に建てられた。蓄電池室と機械室で構成される。明治26年に開通した横川軽井沢区間であるが、26のトンネルを蒸気機関車で走らせるのは難儀なことであった。何故ならば狭いトンネル内に煙が充満し、もろに人間を直撃していたからである。客もそうだが、機関士は命がけだった。そのため直ぐに電化の必要性が議論され、全国の主要路線の中で最初に電化された。変電所はその施設だ。電化により横軽の所要時間は約49分に短縮された。
 丸山変電所を過ぎるとレールは左に曲がり勾配が急にきつくなる。これが66・7パーミルの傾斜なのか!と感嘆する。以後はずっとこの傾斜が続く。唸りながら重い列車を押し上げていたED42の姿が目に浮かぶ。しばらく行くと「峠の湯」。トロッコ列車の終着点だ。右側の延長線上に複線時代の線路が続く。横軽廃止後、整備されていないので立ち入り禁止とされている。左側に単線時代の遊歩道がある。ここからが真の「アプトの道」だ。熊の平まで10個あるトンネルのうち、5つのトンネルを歩く。1号トンネル・第2橋梁・2号トンネルと続く。左手に碓氷湖(ダムで作られた人造湖)が見える。それから3号・4号と歩き続けて、5号トンネルを抜けた瞬間に素晴らしい風景が眼前に広がる。これが「碓井第3橋梁」。通称「メガネ橋」である。明治の建築技術を結集して構築された。約200万個のレンガを積み上げて造られた4連アーチ式鉄道橋(長さ91メートル・高さ31メートル)。この橋梁完成により横川軽井沢間の最大難所たる碓氷川を超えることが出来るようになり、明治26年に横軽間が開通した。橋梁上も66・7パーミルの傾斜を保っているので訪問者はその傾き度を直接に感じることが出来る。第3橋梁から下の国道に降りる歩道がある。下から眺めるメガネ橋はもはや芸術品だ。碓氷川脇に設置される2番目の土台部分は岩盤がなく軟弱だったために基礎工事が大変だったという。重機がない時代に、このような大工事を完遂された明治の方々に心から敬意を表する。
 山側に新線の橋梁2本が見える。昭和38年9月30日、粘着式(普通のレール)運転が開始された。碓氷峠専用の「EF63」が導入され、これを2両連結することで難所を超えた。特急「あさま」の場合、1両が約20メートルで、12両だと約240メートルになる。ロクサン2両連結で全長280メートル。これを66・7パーミルの傾斜に置くと先頭と最後尾に18・6メートルもの高低差が出来る。ビル5階分だ。運転する機関士は大変だった。この新線は長野新幹線の開通により使われなくなった。こうして横川軽井沢間の碓氷越え鉄道は合計104年に及ぶ歴史を終えた。目前の橋梁2本はその内の粘着運転時代34年分の残骸なのだ。

 メガネ橋からの帰路に付く。今度は一貫して下り坂。人間的には何ということはないが鉄道にとっては上り坂より下り坂のほうが慎重を要する。何故なら上り坂の列車は重力を動力が克服できるかどうかだけ問題になるに過ぎないが、下り坂の列車は進行方向に重力が加わるので制動に細心の注意を払わないと車両はジェットコースター状態になってしまうからだ。ブレーキが効かないと大事故に直結する。EF63は下り勾配における抑制ブレーキを強化しており、非常用として電磁石をレールに吸着させるブレーキも装備された。所要時間は軽井沢行が17分・横川行が24分だった。上り(下り坂)のほうが時間を要したことに留意しなければならない。
 歩いていくと「峠の湯」に到着した。時刻表を見たら前の便が出たばかり。次の便は約1時間後になる。帰路チケットも買っていたが時間がもったいない。私は「鉄道文化むら」まで坂を歩いて下ることにした。この道は複線時代に「上り」列車(即ち横川行きの下り坂)が使用した線路の跡である(架線が残る)。
 横川駅に着く。文化むらを見学する前に駅近くにある「碓水の関所」を拝見する。中山道は大国である武蔵と信濃を結ぶ幹線道路だった。その中山道の要衝である碓氷関は(箱根と並ぶ)江戸を守る要の1つだった。関所の西門は徳川幕府直轄・東門は安中藩が管轄とされた。入り鉄砲と出女は特に厳しく検査された。関所やぶりは見つかり次第死刑だった。西国から江戸に向かう際「東海道が近くて便利」と感じるのは現代的な誤解である。中山道は距離的に遠いが、安定的に通れた。逆に東海道は海・川・湿地帯を含むので長時間待機させられる可能性が高かった。それゆえ西国諸藩が江戸に向かうには中山道を通ることが意外と多かったのである。

 再び「碓氷峠鉄道文化むら」に入る。左手に「刻苦七十年」の碑が立っている。機関車のピニオンとラックレールが嚙み合った形をしている。碑文にこのように記されている。「70年に及ぶアプト式運転の完遂と新線開通に伴い新型機関車による粘着運転開始の功績を総裁から表象されたので記念に碑を建立した。昭和38年11月30日・横川機関区」。園内の扇型外周は蒸気機関車の機関庫跡だろうか?シンボル広場は転車台跡か?鉄道資料館は国鉄時代の機関区管理庁舎そのままだ。
 展示車両を拝見する。特に初期に活躍したED42・粘着運転開始後の主力機EF63・協調運転していた特急「あさま」が目を引く。が、展示されている多くの古い列車を観ても私は感動しない。これらは命を失った車両だからである。林の中で生きている昆虫ではなく標本箱に飾られた死んだ昆虫を観ている気分だ(明治村に関する2009年7月15日「建物とトポス」を参照)。私は「死んだ列車」ではなく「生きた列車」が観たい。そう思いながら鉄道資料館の見学を終えた。
 その時「ポーッ」と汽笛が鳴った。駅方向を見るとホーム辺りに白煙が上がっている。駅に向かって走っている人の姿が見える。私も群衆と化して駅に向かう。信じられない!蒸気機関車D51498が駅に入庫していた。生きた列車が、蒸気機関車が、目の前にある!自動販売機で入場券を買いホームに走った。ピカピカに磨き抜かれた蒸気機関車はまさに芸術作品だ。このイベントがあることを私は知らなかった。予期していなかったからこそ蒸気機関車に出逢う感動は凄いものだった。客車のエメラルドブルーのシートがあまりに美しかった!後方にEF63が連結されている。横川名物の後方から押すスタイルを披露してくれた。高揚した気分で改札を出る。
 売店で「峠の釜めし」を頂く。昭和33年に販売開始された人気商品である。ロクサンを連結する際に5分程度停車するので販売され始めたものである。当時の横川駅ホームには「おぎのや」販売員が数名いたという。午後2時15分発のバスに乗車する。朝はエンジンブレーキを効かせ慎重に降りた坂道をバスは勢いよく駆け上がる。列車と違い、バスにとって多少の上り傾斜は平気なのである。

 軽井沢駅バス発着所に戻る。未だ3時前だ。ホテルに帰るには早すぎる。時刻表を見たら何と20分ほどで「町内循環バス南回り」が出ることが判った!1番乗場に行きワクワクしながらバスを待った。3時15分発のバスが来た。乗客は私1人。この循環バスは交通弱者対策のために軽井沢町の公的援助のもとに運営されているのではないか、と想像する。何故ならこの路線は何処まで乗っても最高運賃200円と定められているからである(事実、時刻表のお問い合わせ先には「軽井沢町住民課交通政策係」が記載されている)。事前にそういう情報を仕入れているが、不安もあるので運転手さんに私は聞いた「私は観光客なので最後まで乗ってここで降りたいんですが宜しいですか?」「戻ってきますから大丈夫です。頭に入れておきますね。」「何処まで乗っても運賃200円と聞いてるんですが?」「はい、そのとおりですよ。」運転手さんはにこやかに応対してくれる。安堵。間も無くバスは出発した。
 線路南側の左は巨大なプリンスショッピングプラザ。右手に広大なゴルフ場が広がる。「軽井沢72ゴルフ場」である。昔、その一部は飛行場だった。大正9年、堤康次郎率いる箱根土地株式会社が軽井沢駅南に広がる地蔵ヶ原を買収する。箱根土地は軽井沢駅から南軽井沢にかけ幅20間(36m)長さ20町(2180m)の道路建設を着工し、大正14年夏に完成した。これが「二十間道路」と呼ばれた県道43号線である。さらに箱根土地は道路西側に馬越飛行場を建設し、昭和2年8月に東京・軽井沢間定期連絡飛行の認可を受けた。ただ「東京」というのが立川なのか国立なのかが明確でない。箱根土地が開発した国立の大学通りが滑走路として使われたという説もあるが、事実を裏付ける史料が乏しい。「本格的な飛行場」であった立川を使ったと見るのが自然であろう(2018年9月3日「立川歴史散歩」を参照)。

 そんな昔をイメージしながら外を眺めている。バスは通りを真っ直ぐ南に向かって右折する。次の信号を左折するところがバス停 「治安の礎」(ちあんのいしづえ)である。「治安の礎」はあさま山荘事件により殉職した2名の機動隊員の慰霊碑として建てられたものである。碑横には「あさま山荘」攻防戦の様子がレリーフによって表現されている。次が「レイクニュータウン入り口」。昭和35(1960)年に西武系企業により開発が着手されたニュータウンである。相当疲弊しているようだ。域内に城のようなモニュメントがあり、その先に池があって、この池から水をくみ上げ放水銃に使ったと聞く。入り口から山荘まで結構遠い。道も入り組んでいて判りにくいようである。断崖に立つあさま山荘の異様な風景はネット上で何度も目にしているので現物を観なくて良い。私は「あさま山荘事件」現場周辺の雰囲気を感じ取ることができれば良い。1970年代に多感な時期を過ごした人間にとり、この地は「あさま山荘事件」の記憶と不可分一体となっていて、切り離すことが出来ない。
 私が小学生の頃、思想史的な大事件が立て続けに起きた。「よど号ハイジャック事件」(昭和45年3月)「三島由紀夫自衛隊乱入事件」(同年11月)そして「あさま山荘事件」(昭和47年2月)である。これらは<思想が社会との接点を失ったときの怖さ>を世に知らしめることになった(この感覚は後のオウム事件の際に強化されることになる)。クレーンで吊り上げられた巨大な鉄球が山荘の壁に何度も当てられ、機動隊員が中に突入していく画像は脳裏に焼き付いている。歴史散歩を計画した最初の時点で、この地を訪れることを私は決めていた。旅の最後の最後に私は「あさま山荘事件」の現場を感じることが出来た。偶然を司る神様に感謝。

 バスは西に進路を変える。昨日のバスルートに合流した。夏冬のオリンピック記念碑がある「風越公園」。タリアセンで多くの歴史的建造物を見学した「塩沢湖」。その先の塩沢交差点で折り返す。再び南側に迂回して北上し新幹線の高架をくぐって右折すると現代的な黒塗りの「中軽井沢駅」。東に向かう。離山(はなれやま)の麓を抜けホテルサイプレスがある「野澤原」を通り過ぎる。初日にブリヂストン別荘を見つけ歓喜した「六本辻・雲場池」を駆け抜け、つるや旅館を拠点に歩き回った「旧軽井沢」ロータリーを経由し、午後4時25分バスは「軽井沢駅」バスターミナルに帰還。3日間の旅程を編集する1時間だった。運転手さんに挨拶「本当に200円で良いんですか?」「ええ結構ですよ」「1時間、本当に楽しかったです。有り難うございました」「こちらこそ御乗車いただき有り難うございました」。「異邦人を歓待する」という明治以来の軽井沢の精神は今も健在なのだ。だからこそ軽井沢は今もなお多くの人々を魅了し続けているのだろう。豊かな気分でサイプレスに帰る。

 翌日の朝、私は新幹線「あさま」に乗るために駅の待合室にいた。暇つぶしのため置かれていたパンフレット類に目を通す。何気なく手に取った「軽井沢新聞2021年3月号」の記載が目に焼き付いた。「あさま山荘事件、殉職警官2名を慰霊」昭和47年に起きたあさま山荘事件で殉職した警官2名の慰霊祭が2月26日発生地の顕彰碑「治安の礎」前で行われた。雪が舞う中、藤巻進軽井沢町長ら約10名が参列。1分間の黙祷の後献花した。軽井沢町在住の一般参列者・三瓶勁三郎さんは「事件があったことを次世代に伝えていかなければならない」と語った。同事件では連合赤軍メンバーが山荘の管理人の妻を人質にとって10日間立て籠もり、内田直孝警視長・高見繁光警視正が銃撃され死亡した(引用終)。軽井沢では「あさま山荘事件」は風化していなかったのだ。私は軽い衝撃を受けていた。「あさま」が到着した。列車は駅を出ると直ぐに巨大な地下ループに入った。スピードが出過ぎないように恐る恐る下っていた碓氷峠を、新幹線は猛スピードで駆け抜ける。その速度に私は遥かな時の流れを感じていた。私の軽井沢の旅はこうして幕を閉じた。(終)


* 昭和47年の2月は世間を騒がせる大事件が連続したときであった。2月2日、28年間グアム島のジャングルに潜んでいた元日本兵横井庄一氏が帰還した。3日に札幌で冬季オリンピックが開幕し13日まで日本中を熱狂させた(特に70メートル級ジャンプ)。2月21日、ニクソン米国大統領が北京入りし直接会談した。失敗に終わったベトナム戦争を終わらせるため中国の協力が必要なアメリカと文化大革命で国際的な孤立を深めていた中国の利害が一致した。日本政府はアメリカの「頭越し」外交を批判することもできず、過去の対中国外交の見直しを迫られていた。こういう状況下で発生したのが浅間山荘事件であった。
* 10日間に及んだ籠城戦において犯人たちの親による呼びかけが行われたことは極めて日本的な風景であった。印象に残る言葉「まあちゃん、聞こえますか。牟田さんを返しなさい。これではあんたの言っていた救世主どころじゃないじゃないの。世の中のために自分を犠牲にするんじゃなかったの。こうなった以上、最後は普通の凶悪犯と違うところを見せてちょうだい。武器を捨てて出てきて欲しいの。それが本当の勇気なのよ。」「昨日、アメリカのニクソンが中国に行きました。社会は変わってきているのです。あなた方の目的はもう十分達成されたじゃありませんか。銃を捨てて出てきなさい。警察は絶対に撃たないと言っているから出てきなさい。」